恋のリハーサルは本番です
第150話 踏みかけた一線
稽古終わりの劇場は、昼間とは別の顔をしていた。
照明は半分だけ落とされ、客席は闇に沈んでいる。
舞台上に残るのは、片付け途中の小道具と、静かな残響。
桜井蓮は、袖で台本を閉じた。
(……今日は、ここで終わり)
そう思っていた。
いつもなら。
「桜井さん」
呼ばれて、足が止まる。
水無月あかりが、舞台中央に立っていた。
ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を無造作にまくっている。
仕事モードの、あの姿。
「三幕のラスト、少しだけ確認したい」
──脚本家としての声。
(……それだけだ)
自分に言い聞かせて、蓮は舞台に上がった。
「どこを?」
「ヒロインが振り向く前の、沈黙」
あかりは台本を持たず、床に視線を落としたまま言う。
「今日のあなた、少し……距離を取ってた」
心臓が、わずかに跳ねる。
(気づかれてる)
「そうですか?」
「うん」
即答だった。
「悪い距離じゃない。でも……」
あかりは言葉を探すように、一瞬だけ黙る。
「“越えない”って決めた人の距離」
その一言で、蓮の中の何かが、静かに崩れた。
(……やっぱり)
この人は、全部見ている。
俳優としての癖も、感情の逃げ道も。
そして──自分が引いた、一線も。
「脚本家として言うなら」
あかりが顔を上げる。
「このシーン、もう一歩近づいてほしい」
「……役として?」
問い返すと、あかりは一瞬だけ目を伏せた。
「……役として、って言えば安全だけど」
そう言って、まっすぐ蓮を見る。
「あなたがどう立つかで、ヒロインの心が変わる」
その視線は、評価じゃなかった。
指示でもなかった。
(……女性だ)
初めて、はっきりとそう思った。
脚本家でも、仕事相手でもない。
今、目の前に立っているのは──
「水無月さん」
名前を呼ぶ声が、少し低くなる。
「俺、決めてたんです」
「なにを?」
「あなたの前では、一線を越えないって」
空気が、張り詰める。
あかりは、驚いたように目を瞬かせた。
「……それは」
「正しいと思ってました」
蓮は、一歩、前に出る。
舞台の中央。
二人の距離が、稽古ではありえないほど近づく。
「でも今は」
喉が、少しだけ乾く。
「越えないことが、逃げだって分かってる」
あかりの指が、わずかに揺れた。
「桜井さん……」
「役じゃない」
言葉を、遮る。
「脚本の話でもない」
もう一歩。
(……ここだ)
これ以上近づけば、戻れない。
主演と脚本家の安全な距離は、壊れる。
それでも。
「あなたを、脚本家じゃなく」
「……」
「一人の女性として見てる」
言ってしまった。
一線を、踏みかけた。
あかりは、しばらく何も言わなかった。
逃げもしなかった。
ただ、静かに息を吸って、吐いて。
「……それ」
小さな声。
「今、言うのはずるい」
責める響きはなかった。
むしろ──揺れている。
「わかってます」
蓮は、足を止めた。
これ以上は、踏み込まない。
でも、引きもしない。
「だから、ここまでです」
覚悟を込めて言う。
「でも……越えたいと思ってることは、隠さない」
沈黙。
劇場の闇が、二人を包む。
やがて、あかりが小さく笑った。
「……本当に、厄介」
そう言って、視線を逸らす。
「それ、明日まで保留」
「……はい」
「脚本家として、ちゃんと考える」
「……」
「一人の女性としても」
その一言で、蓮の胸が熱くなる。
(……届いた)
完全には越えていない。
でも、確かに──線は揺れた。
稽古終了のアナウンスが、遠くで鳴る。
あかりは台本を手に取り、背を向けた。
「今日は、ここまで」
「お疲れさまでした」
去っていく背中を見送りながら、蓮は思う。
(越えないと決めた一線は)
(守るためじゃなく)
(踏み出すために、あったんだ)
覚悟は、遅れた。
でも──今度は、立ち止まらない。
照明は半分だけ落とされ、客席は闇に沈んでいる。
舞台上に残るのは、片付け途中の小道具と、静かな残響。
桜井蓮は、袖で台本を閉じた。
(……今日は、ここで終わり)
そう思っていた。
いつもなら。
「桜井さん」
呼ばれて、足が止まる。
水無月あかりが、舞台中央に立っていた。
ジャケットを脱ぎ、シャツの袖を無造作にまくっている。
仕事モードの、あの姿。
「三幕のラスト、少しだけ確認したい」
──脚本家としての声。
(……それだけだ)
自分に言い聞かせて、蓮は舞台に上がった。
「どこを?」
「ヒロインが振り向く前の、沈黙」
あかりは台本を持たず、床に視線を落としたまま言う。
「今日のあなた、少し……距離を取ってた」
心臓が、わずかに跳ねる。
(気づかれてる)
「そうですか?」
「うん」
即答だった。
「悪い距離じゃない。でも……」
あかりは言葉を探すように、一瞬だけ黙る。
「“越えない”って決めた人の距離」
その一言で、蓮の中の何かが、静かに崩れた。
(……やっぱり)
この人は、全部見ている。
俳優としての癖も、感情の逃げ道も。
そして──自分が引いた、一線も。
「脚本家として言うなら」
あかりが顔を上げる。
「このシーン、もう一歩近づいてほしい」
「……役として?」
問い返すと、あかりは一瞬だけ目を伏せた。
「……役として、って言えば安全だけど」
そう言って、まっすぐ蓮を見る。
「あなたがどう立つかで、ヒロインの心が変わる」
その視線は、評価じゃなかった。
指示でもなかった。
(……女性だ)
初めて、はっきりとそう思った。
脚本家でも、仕事相手でもない。
今、目の前に立っているのは──
「水無月さん」
名前を呼ぶ声が、少し低くなる。
「俺、決めてたんです」
「なにを?」
「あなたの前では、一線を越えないって」
空気が、張り詰める。
あかりは、驚いたように目を瞬かせた。
「……それは」
「正しいと思ってました」
蓮は、一歩、前に出る。
舞台の中央。
二人の距離が、稽古ではありえないほど近づく。
「でも今は」
喉が、少しだけ乾く。
「越えないことが、逃げだって分かってる」
あかりの指が、わずかに揺れた。
「桜井さん……」
「役じゃない」
言葉を、遮る。
「脚本の話でもない」
もう一歩。
(……ここだ)
これ以上近づけば、戻れない。
主演と脚本家の安全な距離は、壊れる。
それでも。
「あなたを、脚本家じゃなく」
「……」
「一人の女性として見てる」
言ってしまった。
一線を、踏みかけた。
あかりは、しばらく何も言わなかった。
逃げもしなかった。
ただ、静かに息を吸って、吐いて。
「……それ」
小さな声。
「今、言うのはずるい」
責める響きはなかった。
むしろ──揺れている。
「わかってます」
蓮は、足を止めた。
これ以上は、踏み込まない。
でも、引きもしない。
「だから、ここまでです」
覚悟を込めて言う。
「でも……越えたいと思ってることは、隠さない」
沈黙。
劇場の闇が、二人を包む。
やがて、あかりが小さく笑った。
「……本当に、厄介」
そう言って、視線を逸らす。
「それ、明日まで保留」
「……はい」
「脚本家として、ちゃんと考える」
「……」
「一人の女性としても」
その一言で、蓮の胸が熱くなる。
(……届いた)
完全には越えていない。
でも、確かに──線は揺れた。
稽古終了のアナウンスが、遠くで鳴る。
あかりは台本を手に取り、背を向けた。
「今日は、ここまで」
「お疲れさまでした」
去っていく背中を見送りながら、蓮は思う。
(越えないと決めた一線は)
(守るためじゃなく)
(踏み出すために、あったんだ)
覚悟は、遅れた。
でも──今度は、立ち止まらない。