恋のリハーサルは本番です

第151話 踏みかけた一線(二)

稽古場の空気は、いつもより少し軽かった。

新しい舞台の読み合わせが始まり、全体の流れもようやく形になりつつある。

笑いが起きるところ、間が生きるところ。

演出家・佐藤の声も、今日はどこか柔らかい。

「はい、今日はここまで。十五分休憩!」

その一言で、空気がほどけた。

役者たちが立ち上がり、ペットボトルを取りに行く。

姫野亜理沙は台本を抱えたまま、勢いよく伸びをした。

「はー! やっぱり読み合わせ楽しいですね!
 言葉が立ち上がる感じが!」

「初日より声出てたな」

翔が笑いながら言うと、亜理沙は得意げに胸を張る。

「ですよね?
 あ、でもさっきの二人の間、ちょっと空気止まりませんでした?」

「……どこが」

蓮が反射的に聞き返す。

「ほら、あそこです。
 ヒロインが一瞬迷ってから台詞を言うところ」

亜理沙は、無邪気に首をかしげた。

「脚本的に間を取るのは分かるんですけど、
 あれ、台詞より“目”で会話してましたよね?」

視線が、自然とあかりへ向く。

あかりは、手元の台本から顔を上げていなかった。

けれど、その指先が一瞬止まったのを、蓮は見逃さなかった。

「……演出上、必要な間よ」
あかりは淡々と答える。

「ヒロインはその時点で、もう答えを持ってる。

 ただ、言葉にする覚悟が追いついてないだけ」

「うわ……」

亜理沙が小さく息を飲む。

「それ、めっちゃ恋ですね」

空気が、一拍遅れて固まった。

「姫野」

佐藤が咳払いをする。

「休憩中とはいえ、あまり感情分析しすぎるな」

「すみません!」

亜理沙は慌てて頭を下げるが、どこか楽しそうだった。

蓮は、胸の奥がざわつくのを感じていた。

(覚悟が、追いついてない……)

それは、役の話なのか。

それとも──。

休憩時間。

蓮は自販機の前で立ち止まっていた。

小銭を入れて、ボタンを押す。

缶が落ちる音が、やけに大きく響いた。

「あ」

背後から、あかりの声。

振り向くと、彼女もまた飲み物を選んでいた。

二人きり。

ほんの数歩の距離なのに、

今までとは違う緊張が、確かにあった。

「……さっきの説明、分かりやすかったです」

蓮が先に口を開く。

「あの間、やっぱり意味があったんですね」

「ええ」

あかりは小さく頷く。

「言葉にしない時間って、逃げにもなるし……
 でも、逃げきれない感情が滲む瞬間でもあるから」

「……脚本家として?」

そう聞いた瞬間、あかりの視線が一瞬だけ揺れた。

「……今は、それしか言えない」

その答えが、蓮の胸に刺さる。

(越えない)

そう決めていた。

脚本家と俳優。

作品と感情。

その境界を、尊重すると。

──でも。

「水無月さん」

名前を呼んだ瞬間、

自分でも驚くほど、声が低くなった。

「俺、あのシーン……」

言いかけて、言葉を探す。

(これ以上は、踏み込むな)

理性が警告する。

けれど、感情は止まらなかった。

「……あの沈黙、好きです」

短い一言。

でも、それは

“役”への感想にしては、近すぎた。

あかりは、ゆっくりと蓮を見る。

脚本家としてではなく、

“一人の女性”として、測るような目で。

「……ありがとう」

その声は、少しだけ柔らかかった。

沈黙。

越えてはいない。

まだ、線のこちら側だ。

けれど──

(踏みかけた)

蓮は、はっきり自覚していた。

自分は今、
「越えない」と決めていた一線に、
意識的に足をかけている。

「休憩、そろそろ終わりますね」

あかりが先に視線を外す。

「ええ」

蓮は頷く。

戻る背中を見送りながら、

胸の奥で、何かが静かに動き出していた。

逃げない、という選択肢。

待つだけが、優しさじゃないかもしれないという予感。

稽古場に戻ると、
翔がこちらを見て、意味ありげに笑った。

(……見られてたな)

それでも、もう引き返せなかった。

線はまだ越えていない。

だが──
踏みかけた一線は、もう消えない。

次に動くのは、誰か。

それだけが、まだ分からなかった。
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