恋のリハーサルは本番です

第198話 送らなかった一行

夜。



撮影初日の喧騒が、ようやく体から抜けていく頃だった。



水無月あかりは、ホテルのベッドに腰掛けたまま、スマホを手にしている。



画面は暗い。通知もない。



それなのに、指先だけが、そこに縫い留められたみたいに動かない。



(……見る意味、ある?)



自分に問いかけて、答えは最初からわかっている。



意味なんて、いらないのだ。



ただ──

来ていないことを、確認したいだけ。



今日は、仕事以外の言葉を、少しだけ交わした。



ほんの数分。



天気の話。



撮影現場の匂い。



役とは関係のない、どうでもいい会話。



それなのに。



(どうして、こんなに残るんだろう)



脚本の台詞なら、切れる。



削れる。



理屈をつけて、整理できる。



でも、あの沈黙。



蓮が一瞬だけ視線を逸らした、あの間。



あれは、どこにも書けない。



スマホの画面が、ふっと明るくなる。



──通知ではない。



ただ、時間が表示されただけ。



あかりは、小さく息を吐いた。



(来てない)



わかっていたのに、胸の奥が、きゅっと縮む。



(……送らない人なんだ)



それは、責める言葉じゃない。



むしろ、尊重に近い。



舞台のときもそうだった。



踏み出す前に、必ず“相手の場所”を確かめる人。



だからこそ──



怖い。



もし、送ってきたら。



もし、仕事じゃない言葉が、画面に並んだら。



自分は、脚本家でいられるだろうか。



この映画を、最後まで“公平に”書き切れるだろうか。



(……卑怯だな、私)



来ないことに、ほっとして。



来ないことに、少しだけ傷ついて。



どちらも、本音だった。



あかりは、スマホを伏せる。



けれど、すぐにまた手に取ってしまう。



メッセージ画面を開く。



入力欄は、空白。



(送らない)



それを選ぶのは、簡単だ。



今まで、ずっとそうしてきた。



でも──



今日は。



カーソルが、静かに瞬く。



『今日は、お疲れさまでした』



仕事の言葉。



安全な言葉。



逃げ道のある一行。



そこまで打って、止まる。



(……違う)



これでは、また同じだ。



仕事の仮面を、一枚重ねるだけ。



あかりは、全て消した。



画面は、また空白に戻る。



しばらくして、スマホを置く。



今度は、ちゃんと。



天井を見上げる。



ホテルの白い天井は、舞台よりも、映画のセットよりも、ずっと無機質だ。



(同じ夜なのに)



あの人は、何を考えているんだろう。



送らなかったメッセージ。



送れなかった一言。



それでも、確かに──

同じ夜を、共有している気がしてしまう。



あかりは、目を閉じる。



心臓の音が、少しだけうるさい。



(これ以上は、だめ)



そう言い聞かせながら、

それでも、どこかで期待している自分を、否定できないまま。



夜は、まだ終わらなかった。

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