恋のリハーサルは本番です

第199話 未送信の朝

──翌朝。

撮影所のゲートをくぐると、まだ冷たい空気が肺に入ってきた。

朝の光は均一で、感情を持たない。

それが、今日には都合がよかった。

水無月あかりは、トートバッグの中でスマホが震えた気がして、足を止める。

取り出して、画面を見る。

通知はない。

(……知ってる)

昨夜、何度も確認した。

未送信のまま消したメッセージは、もうどこにも残っていない。

──おはようございます。

スタッフの声に、反射で頭を下げる。

脚本家としての動線。

安全な立ち位置。

(今日は、仕事)

そう言い聞かせながら、あかりは現場に入った。
 


セットは、まだ未完成の部屋だった。

壁の一部は仮。

窓の外の景色も、あとで合成される。

「未完成」が前提の場所。

そこに、桜井蓮が立っていた。

衣装合わせの途中だろう。

シャツの袖をまくり、スタッフと何か話している。

横顔だけで、十分すぎるほど存在感がある。

(……俳優だ)

そう思った瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。

昨夜の会話。

仕事じゃない言葉。

思い出してはいけない種類の温度。

「あ」

蓮が、こちらに気づいた。

一瞬、視線が合う。

互いに、言葉を探すための、ほんのわずかな間。

「……おはようございます」

先に口を開いたのは、蓮だった。

丁寧で、距離を測る声。

「おはようございます」

あかりも、同じ調子で返す。

──それで、十分なはずだった。

「今日から、ですね」

「はい。クランクインです」

仕事の言葉。

安全なやりとり。

でも。

「……昨日は、ありがとうございました」

蓮のその一言だけが、少しだけ、枠から外れていた。

何に対する「ありがとう」なのか。

聞かなくても、わかってしまう。

あかりは、答えに迷って、ほんの一拍遅れた。

「……こちらこそ」

それ以上は、言えない。

送らなかった一行。

言わなかった言葉。

それらが、二人の間に、確かに存在している。

助監督の声が飛ぶ。

「五分後、本読み入ります!」

空気が切り替わる。

「あ、行きます」

「あ、はい」

同時に言って、少しだけ気まずくなる。

すれ違いざま、蓮が小さく言った。

「……昨日の夜」

あかりの心臓が、跳ねる。

でも、蓮は続けなかった。

「いえ。なんでもないです」

逃げ場のない一日が、始まる。

でも、あかりは知っていた。

昨夜、送らなかった一行は、
消えたのではなく──
今日という現場に、持ち越されただけだということを。

未完成のセットの中で。

未定の感情を抱えたまま。

物語は、もう一度、動き出していた。
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