恋のリハーサルは本番です

第200話 未送信の朝(続)

朝の空気は、思ったより冷たかった。

ロケバスのドアが閉まる音が、やけに大きく響く。

エンジンの低い振動。

誰かがコーヒーの蓋を開ける音。

映画の現場は、もう動き出している。

桜井蓮は、台本を開いたまま、ページをめくらずにいた。

視線は文字を追っているようで、追っていない。

(……昨夜)

スマホの画面が、脳裏に浮かぶ。

未送信のまま残った、短い文章。

──お疲れさまでした。

──今日のこと、少しだけ話せたら。

送らなかった。

いや、送れなかった。

「桜井さん、準備お願いします」

助監督の声に、現実へ引き戻される。

蓮は返事をして、立ち上がった。

外に出ると、朝の光が一気に視界を満たす。

照明とは違う、容赦のない自然光。

セットの向こうで、水無月あかりがスタッフと話している。

脚本家としての顔。

落ち着いた声。

無駄のない仕草。

(……仕事の顔だ)

それが、少しだけ寂しい。

昨日、確かに交わした会話。

仕事じゃない、ほんの数分の沈黙と笑い。

あれは、幻じゃなかったはずなのに。

「蓮」

名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。

振り向くと、あかりが立っていた。

コートの襟を押さえ、少しだけ困ったような表情。

「おはようございます」

「……おはよう」

それだけ。

それだけなのに、空気が張り詰める。

周囲にはスタッフがいる。

話せない距離じゃない。

でも、話してはいけない距離。

「今日、最初のシーン」

あかりは、仕事の声に切り替える。

「感情、抑えめで大丈夫です。
 昨日より、ほんの少し距離がある感じで」

蓮は、うなずく。

「わかりました」

プロとしての返事。

俳優としての理解。

でも。

(距離なんて)

(もう、戻らないのに)

あかりは一瞬だけ、言葉を探すように視線を落とした。

そして、何も言わずに背を向ける。

その背中を見送りながら、蓮は思う。

(送らなかったのは、正解だったのか)

(それとも──)

未送信のまま残った言葉は、
朝の光の中で、ますます重くなっていく。

「……本番、行きます」

スタッフの声。

今日もまた、
仕事としての一日が始まる。

けれど。

この朝は、
もう“何もなかった朝”には戻れない。

未送信のままの感情だけが、
確かに、二人の間に置かれていた。
< 201 / 218 >

この作品をシェア

pagetop