恋のリハーサルは本番です

第201話 送れなかったまま、始まる

朝のロケ地は、まだ人が少なかった。

都心から少し外れた、古いアパートの一室。

映画の冒頭に使われる予定の、静かな生活感のある部屋。

「未送信の朝」は、ここから始まる。

蓮は、室内に入った瞬間、足を止めた。

畳の匂い。

窓から差し込む、斜めの光。

流し台の蛇口から、わずかに落ちる水音。

──舞台では、なかった空気。
(映画だ)

当たり前の事実を、いまさら実感する。

舞台では、逃げ場がなかった。

映画は、カットがある。

繰り返せる。

やり直せる。

……はずだった。

「桜井さん、立ち位置こちらで」

助監督の声に、頷く。

体が、勝手に動く。

カメラが構えられる。

照明が調整される。

スタッフの足音が、ひとつずつ位置を決めていく。

その一連の動きの中で、
蓮の意識は、どうしても──彼女に向いてしまう。

水無月あかりは、モニター横に立っていた。

脚本家として。

原作者として。

そして、この現場では──
誰よりも、彼の芝居を知っている人間として。

彼女は、こちらを見ていない。

正確には、
見ているが、見ていない。

画面の中の芝居だけを見ている目。

(……あかり)

呼びたい衝動を、喉の奥で飲み込む。

昨夜。

スマホを手に持ったまま、結局送れなかった一文。

──あのときの沈黙は、
──いまも、ここにある。

「本番いきます」

監督の声。

「よーい……アクション」

カチン、と、板が鳴る。

蓮は、台詞を言う。

書かれている通りの言葉。

感情も、設計通り。

……なのに。

胸の奥で、別の台詞が、ずっと暴れている。

(言わなかった言葉)
(聞かなかった返事)

その“余白”が、
役の沈黙に、勝手に入り込んでくる。

ヒロイン役の女優が、目を伏せる。

一拍。

二拍。

監督が止めない。

(……来る)

蓮は、知ってしまう。

この映画もまた、
通しではないけれど、本番だけの芝居になる。

台詞を言い終えたあと、
ほんの一瞬──呼吸が遅れる。

それを、
モニターの前のあかりが、確かに見た。

彼女の指先が、台本の端を、きゅっと掴む。

(……蓮)

名前は、心の中だけで呼ばれる。

カット。

「オッケーです」

監督の声が、軽い。

現場が、少し緩む。

蓮は、視線を上げる。

一瞬だけ、あかりと目が合う。

ほんの一瞬。

でも。

逃げなかった目だった。

それだけで、
昨夜の未送信は、まだ終わっていないと知る。

朝は、始まったばかりだ。

送られなかった言葉は、
まだ、行き先を決めていない。

そして──
この一日は、
もう誰にも、逃がしてはくれない。
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