恋のリハーサルは本番です

第202話 送れなかったまま、始まる(続)

朝の撮影所は、まだ体温が低い。

セットに組まれた家の玄関先に、白い霧が薄く残っている。

スタッフが行き交い、ケーブルが床を這い、コーヒーの匂いが漂う。

映画の現場は、いつだって現実より一歩だけ先に進んでいる。

桜井蓮は、台本を閉じた。

いや──正確には、閉じる必要がなくなった、という感覚だった。

昨夜、何度も読み返した台詞。

行間に滲む、あかりの癖。

削ったはずなのに残ってしまった感情の影。

(……これ、逃げ場がないな)

小さく息を吐く。

「桜井さん、準備お願いしまーす」

助監督の声に、短く手を上げる。

返事はそれだけでいい。

今日の現場では、言葉は最小限で回る。

メイクを終え、衣装に着替え、
セット前の待機スペースに向かう途中──
いた。

水無月あかり。

ノートPCを抱え、スタッフと何か確認している。

髪は無造作にまとめられ、目の下に、わずかな影。

寝ていない、とすぐに分かる。

(……同じ夜を越えた顔だ)

蓮は視線を逸らす。

見てはいけないわけじゃない。

ただ、今見たら、芝居が壊れる気がした。

「監督、脚本の変更点は──」

あかりの声が、少しだけ震えている。

仕事の声だ。

脚本家としての、整えられた音。

でも蓮は知っている。

この声が、昨日の夜、未送信のままスマホに残った指先と、同じ人間のものだということを。

「──本番いきます」

監督の声が、空気を切る。

静かになる現場。

カメラが構えられ、レンズがこちらを向く。

蓮は立ち位置につく。

役としての名前を呼ばれ、
役としての呼吸を始める。

それでも──

(……あかり)

役の感情の奥に、
どうしても重なってしまう、現実の名前。

「アクション」

カチン、という音。

芝居が始まる。

台詞は、問題なく口をついて出る。

動きも、間も、正しい。

けれど──
感情だけが、正解より少し深いところに落ちていく。

カットがかかるまで、
蓮は一度も、あかりの方を見なかった。

それが、
“送れなかったまま始まった一日”に対する、
自分なりの礼儀だった。
< 203 / 218 >

この作品をシェア

pagetop