恋のリハーサルは本番です

第205話 残った場所で、名前が揺れる

控室の隅で、蓮は紙コップのコーヒーを持ったまま立ち尽くしていた。

 すでに冷めているのに、口をつける気になれない。

「──高峰翔さんの海外進出については、どう感じていますか?」

 さっきまで浴びせられていた質問が、まだ耳の奥に残っている。

 マイクを向けられた瞬間、反射的に浮かべた笑顔は、もう思い出せないほどだ。

 映画のクランクイン取材。

 主役抜擢。

 期待の若手俳優。


 そして──

「元共演者・翔との関係性」

 誰も悪意を込めていない。

 ただ“物語としておいしい”から聞いてくるだけだ。

「刺激を受けました、尊敬しています」

 そう答えた。

 嘘ではない。

 けれど、本当でもなかった。

 翔はもう、この現場にはいない。

 なのに、名前だけが、先に来る。

 蓮は廊下に出て、壁にもたれた。

 遠くでスタッフの声が行き交い、セットチェンジの音が響く。

 ──あかりは、今どこにいる。

 そのとき、スマホが震えた。

 ニュースアプリの通知。

《若手俳優・翔、次回作はハリウッド制作作品へ
舞台で評価された表現力が海外でも注目》

 指が、自然と止まる。

 画面を閉じようとして、できなかった。

 数行の記事。

 たったそれだけで、胸の奥がざわつく。

 翔が選んだ道。

 振り返らなかった楽屋。

 そして、あかりが書けなかった台詞。

 ──俺は、ここに残った。

 残った理由を、蓮はまだ言葉にできない。

 一方、別の控室で、あかりはタブレットを閉じたところだった。

 脚本の最終調整。

 助監督から渡された取材記事の束が、机の端に積まれている。

 その一番上に、同じ名前があった。

「……また」

 声に出して、すぐに後悔する。

 自分で選んだ現場だ。

 自分で書いた物語だ。

 それなのに。

 記事には、あかりの名前も、蓮の名前も、添え物のように並んでいる。

《かつて共演した若手俳優・桜井蓮、水無月あかりの新作映画にも注目が集まる》

 “かつて共演した”。

 たったそれだけの距離感。

 あかりはペンを取り、何かを書き足そうとして──止めた。

 今は、脚本ではどうにもならない。

 外から来る言葉。

 名前だけで揺さぶられる現実。
 
 それでも、現場は始まる。

 カメラは回る。

 物語は前に進む。

 逃げ場は、もうない。
 
 ──でも。

 あかりはふと、蓮の横顔を思い出した。

 さっきの、仕事以外の会話。

 あの間の取り方。

「……大丈夫」

 誰に言ったのか、自分でもわからないまま、立ち上がる。

 名前だけが先に来る世界で。

 それでも、自分たちは、ここにいる。

 その事実だけを、今は信じるしかなかった。
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