恋のリハーサルは本番です

第206話 書かれなかった名前の余白

あかりは深く息を吸い、ノートパソコンの画面を見つめ直した。

そこに映っているのは、誰かになりきるための台本ではない。

自分が「書く側」として積み上げてきた言葉の断片だ。

画面の端に、未完成のプロットが残っている。

赤字で入れたメモ──
「この人物は、ここで名前を呼ばれるべきか?」

あかりはカーソルを動かし、その一文を削除した。

答えが出ない問いは、いまは残しておいていい。

書けない自分を、無理に次の段階へ押し出す必要はない。

スマートフォンが、机の上で小さく震えた。

通知。

取材依頼だった。

「──例の作品について、少しお話を伺えませんか」

文面を追った瞬間、胸の奥がわずかにざわつく。

そこには、避けていた名前は書かれていない。

けれど、行間から透けて見える。

翔。

直接呼ばれなくても、外からの視線は容赦なくそこへ近づいてくる。

作品は、もう自分だけの場所に留まってはいないのだ。

あかりは、返信画面を開いたまま指を止めた。

言葉を選ぶ。

沈黙も、拒否も、曖昧な了承も──
どれも、書き手としての選択になる。

最終的に送ったのは、短い一文だった。

「現在、制作の都合上、具体的なお話はできません」

送信後、画面が静かになる。

それでも、心の中のざわめきは消えなかった。

名前は書かれていない。

けれど確かに、外部からの力が、物語の輪郭を揺らし始めている。

あかりはノートパソコンを閉じ、椅子にもたれた。

ここは舞台ではない。

立ち位置を示すテープも、決められた動線もない。

あるのは、
「書く」ことを選び続けてきた自分と、
書いたものが自分の手を離れ始めている現実だけ。

名前はまだ、本文には出てこない。

けれど──
残った場所で、確かに揺れている。
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