恋のリハーサルは本番です
第207話 呼ばれなかった名前について
取材用の部屋は、思っていたよりも小さかった。
長机と、簡易的な照明。
壁にはポスターもなく、映画のタイトルが入ったパネルだけが置かれている。
あかりは椅子に腰掛け、膝の上で指を組んだ。
慣れたはずの取材なのに、今日は少しだけ呼吸が浅い。
「よろしくお願いします」
記者は柔らかく笑い、録音機のスイッチを入れた。
「今回の脚本、とても“生身の感情”が印象的でした。
舞台版から映画版へ、書き直すうえで一番意識された点は?」
想定内の質問。
あかりは頷き、用意してきた言葉を選ぶ。
「台詞よりも、沈黙ですね。
言葉にしきれない部分を、どう残すかを考えました」
「なるほど。
その“残した部分”は、誰か特定の人物像があったんでしょうか?」
一瞬だけ、間が空いた。
鋭い、というほどではない。
でも、よく分かっている人の聞き方だった。
「……特定のモデル、という形ではありません」
嘘ではない。
けれど、十分でもない。
記者はペンを走らせながら、続ける。
「主演の桜井蓮さんの演技も、
“書かれていない感情を背負っている”と評されています。
脚本家として、どう受け止めていますか?」
蓮の名前。
胸の奥が、わずかに揺れた。
「……ありがたいです」
それだけで終わらせようとした、次の瞬間。
「舞台版では、別の俳優さんの存在感も話題でしたよね」
来る。
あかりは、分かっていた。
「海外に行かれた高峰翔さん。
彼の演技が、今回の脚本に影響を与えた部分はありますか?」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わる。
あかりは、視線を落とさずに答えを探した。
ここで名前を出すこともできる。
完全に否定することもできる。
どちらも、簡単だ。
でも──
どちらも、正しくない。
「……影響、という言い方は少し違うかもしれません」
記者が顔を上げる。
「舞台のとき、
私が“ここは書けない”と感じた部分がありました」
言葉を選ぶ。
慎重に、でも逃げない。
「それを、役者がどう生きるかを見ていた。
その経験が、映画版を書くときの判断材料にはなっています」
翔の名前は、出していない。
でも、消してもいない。
記者は、わずかに口角を上げた。
「役者に、委ねた、と」
「はい」
あかりは、はっきりと頷いた。
「書き手がすべてを決めない、という選択です」
録音機のランプが、静かに点り続けている。
取材はその後も続いた。
作品のテーマ。
映画化の意義。
今後の展望。
すべて無難に答えたはずなのに、
最後の質問だけが、胸に残った。
「では最後に。
この映画で、一番“書いてよかった”と思う点は?」
あかりは、少し考えた。
「……自分が、書けなかった部分を、
ちゃんと“なかったこと”にしなかったところです」
それが、精一杯だった。
取材が終わり、部屋を出ると、廊下の先に蓮が立っていた。
偶然なのか、待っていたのかは分からない。
「お疲れさまです」
仕事用の声。
仕事用の距離。
「……お疲れ」
短い会話。
それだけで、すれ違う。
でも、あかりは知っている。
今日の記事が出れば、
“書けなかった部分”は、もう二人だけのものではなくなる。
外部の言葉が、関係の輪郭をなぞり始める。
──逃げ場は、また一つ減った。
長机と、簡易的な照明。
壁にはポスターもなく、映画のタイトルが入ったパネルだけが置かれている。
あかりは椅子に腰掛け、膝の上で指を組んだ。
慣れたはずの取材なのに、今日は少しだけ呼吸が浅い。
「よろしくお願いします」
記者は柔らかく笑い、録音機のスイッチを入れた。
「今回の脚本、とても“生身の感情”が印象的でした。
舞台版から映画版へ、書き直すうえで一番意識された点は?」
想定内の質問。
あかりは頷き、用意してきた言葉を選ぶ。
「台詞よりも、沈黙ですね。
言葉にしきれない部分を、どう残すかを考えました」
「なるほど。
その“残した部分”は、誰か特定の人物像があったんでしょうか?」
一瞬だけ、間が空いた。
鋭い、というほどではない。
でも、よく分かっている人の聞き方だった。
「……特定のモデル、という形ではありません」
嘘ではない。
けれど、十分でもない。
記者はペンを走らせながら、続ける。
「主演の桜井蓮さんの演技も、
“書かれていない感情を背負っている”と評されています。
脚本家として、どう受け止めていますか?」
蓮の名前。
胸の奥が、わずかに揺れた。
「……ありがたいです」
それだけで終わらせようとした、次の瞬間。
「舞台版では、別の俳優さんの存在感も話題でしたよね」
来る。
あかりは、分かっていた。
「海外に行かれた高峰翔さん。
彼の演技が、今回の脚本に影響を与えた部分はありますか?」
部屋の空気が、ほんの少しだけ変わる。
あかりは、視線を落とさずに答えを探した。
ここで名前を出すこともできる。
完全に否定することもできる。
どちらも、簡単だ。
でも──
どちらも、正しくない。
「……影響、という言い方は少し違うかもしれません」
記者が顔を上げる。
「舞台のとき、
私が“ここは書けない”と感じた部分がありました」
言葉を選ぶ。
慎重に、でも逃げない。
「それを、役者がどう生きるかを見ていた。
その経験が、映画版を書くときの判断材料にはなっています」
翔の名前は、出していない。
でも、消してもいない。
記者は、わずかに口角を上げた。
「役者に、委ねた、と」
「はい」
あかりは、はっきりと頷いた。
「書き手がすべてを決めない、という選択です」
録音機のランプが、静かに点り続けている。
取材はその後も続いた。
作品のテーマ。
映画化の意義。
今後の展望。
すべて無難に答えたはずなのに、
最後の質問だけが、胸に残った。
「では最後に。
この映画で、一番“書いてよかった”と思う点は?」
あかりは、少し考えた。
「……自分が、書けなかった部分を、
ちゃんと“なかったこと”にしなかったところです」
それが、精一杯だった。
取材が終わり、部屋を出ると、廊下の先に蓮が立っていた。
偶然なのか、待っていたのかは分からない。
「お疲れさまです」
仕事用の声。
仕事用の距離。
「……お疲れ」
短い会話。
それだけで、すれ違う。
でも、あかりは知っている。
今日の記事が出れば、
“書けなかった部分”は、もう二人だけのものではなくなる。
外部の言葉が、関係の輪郭をなぞり始める。
──逃げ場は、また一つ減った。