恋のリハーサルは本番です

第209話 選ばれた役、選ばれていない人間

記事を読んだのは、撮影の合間だった。

楽屋のソファに深く腰を沈め、台本を閉じたまま、蓮はスマートフォンの画面を眺めていた。

タイトルは無難だった。

〈舞台から映画へ──脚本家・水無月あかりが語る“書けなかった部分”〉

あかりらしい言葉が並んでいる。

曖昧で、慎重で、どこか一線を引いた表現。

蓮は、それを悪くないと思った。

少なくとも、彼女が誰かを利用したり、切り
捨てたりする人間ではないことを、よく知っている。

だが、違和感は本文ではなく、その先にあった。

スクロールする指が、自然と止まる。

コメント欄。
関連リンク。

二次的に書かれた記事たち。

〈高峰翔の不在を埋めたのが桜井蓮〉
〈舞台での“本番だけの芝居”を、映画で引き継ぐ存在〉
〈三角関係の最終的な勝者〉

勝者。

その言葉を見た瞬間、蓮は息を止めた。

胸の奥が、わずかに冷える。

嬉しい、という感情はなかった。

代わりに、説明のつかない引っかかりが残る。

──違う。

そう思ったが、何が違うのかを言葉にできない。

彼は確かに、この映画の主演だ。

オーディションを勝ち抜き、演出家にも、制作にも、選ばれた。

仕事としては、何一つ曖昧な点はない。

だが、記事の中で勝手に作られていく物語は、
“役として選ばれた自分”と、“人間として選ばれた自分”を、同一にしていた。

蓮は、そこに自分がいない気がした。

「……違うんだよな」

誰に聞かせるでもなく、呟く。

あかりは、何も言っていない。

名前も、関係も、定義も。


それなのに、外側の言葉だけが先に進み、
あたかも結論が出たかのように扱われている。

蓮は思い出す。

舞台の本番。

台本にはなかった沈黙。

呼吸だけで交わされた、あの一瞬。

あれは、誰かが勝ち取ったものではない。

譲られたものでも、奪ったものでもない。

ただ、そこに立った人間同士が、逃げなかった結果だった。

だからこそ、今の扱われ方が、どうしても馴染まなかった。

スマートフォンを伏せる。

画面は暗くなり、楽屋の照明が映り込む。

鏡越しに、自分の顔を見る。

役の顔ではない。

撮影用でも、舞台用でもない。

──俺は、まだ選ばれてない。

そう思った瞬間、胸の奥で何かがはっきりと形を持った。

待たない、と決めた。

舞台の上でも、仕事でも、前に進んだ。

それでも、
あかりが“何を選ぼうとしているのか”は、まだ聞いていない。

それを、外部の物語で済ませてはいけない。

蓮は立ち上がり、台本を手に取った。

ページをめくる指先が、ほんの少し強くなる。

「……役としてじゃない」

次に進むなら、
選ばれたふりは、もうしない。

楽屋のドアを開けると、廊下の先でスタッフが呼んでいる。

仕事は続く。

撮影も、芝居も、予定通りだ。

だが、蓮の中では、
別の“本番”が、静かに始まっていた。
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