恋のリハーサルは本番です
第210話 正しさが、噛み合わない
午前中の撮影は、順調だった。
段取りも、照明も、カメラワークも問題ない。
現場に流れる空気は落ち着いていて、誰もが「いい日だ」と思っていた。
異変が起きたのは、三テイク目だった。
蓮は、台詞を変えたわけではない。
一字一句、脚本通りだ。
だが、言い終えたあとの“間”が、想定よりも長かった。
沈黙。
呼吸。
視線が、ほんのわずかに残る。
モニター越しに、あかりの眉が動く。
「……カット」
監督が声をかけるより先に、あかりが立ち上がった。
普段ならしない行動だった。
「すみません。今のシーン、少しだけ確認させてください」
現場の空気が、わずかに張る。
だが、誰も口を挟まない。
水無月あかりは、この作品の脚本家だ。
彼女が言えば、現場は止まる。
蓮は、モニターの前に立つあかりを見た。
その背中は、まっすぐで、迷いがない。
「このシーンの彼は、もう答えを出している人物です」
あかりの声は、冷静だった。
「迷っているように見える“間”を入れると、
ラストの意味が変わってしまう」
蓮は頷いた。
理解はできる。
構造として、彼女の言うことは正しい。
「分かりました」
そう答えながら、胸の奥に、かすかな引っかかりが残る。
次のテイク。
蓮は、間を詰めた。
テンポは良い。
物語としても、破綻はない。
だが、カットがかかった瞬間、あかりは小さく首を傾げた。
「……違う」
声には出さなかった。
それでも、蓮には伝わった。
もう一度。
今度は、ほんの一瞬だけ、間を戻す。
「カット」
監督が蓮を見る。
蓮は視線を逸らさず、あかりを見た。
あかりは、言葉を選んでいた。
「その……今の“間”は、この人物じゃない」
その言い方が、蓮の胸に刺さる。
──この人物。
蓮は思う。
それは、役の話なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
「じゃあ、どのくらいですか」
蓮の声は穏やかだった。
「どこまでなら、いいんでしょう」
あかりは一瞬、言葉に詰まる。
具体的な秒数や動きでは、答えられない。
「……ここは、もう迷わない場所なので」
それ以上は言わなかった。
蓮は、小さく息を吐く。
「分かりました。役として、やります」
その言葉に、あかりの肩がわずかに揺れた。
役として。
それは、彼女が今、一番聞きたくなかった言葉だったかもしれない。
撮影は続いた。
表面上、何事もなかったように進む。
だが、二人の間には、薄い膜のようなものが張ったままだ。
休憩時間。
あかりは台本に視線を落とし、ペンを走らせる。
修正するほどの変更ではない。
それでも、何かを書いていないと、落ち着かなかった。
蓮は少し離れた場所で、水を飲みながら考えていた。
──翔がいたら。
その考えが、ふと浮かぶ。
翔なら、きっと何も言わず、
だが、迷いもなく、
最初から“踏み込む芝居”をしただろう。
それを止める役を、あかりはしなかったかもしれない。
なぜ、自分には止めるのか。
なぜ、自分は、止められるのか。
その答えを、蓮はまだ掴めない。
あかりもまた、同じ問いを抱えていた。
──私は、脚本家として止めた。
──それだけのはずなのに。
それでも、胸の奥がざわつく。
正論は、誰も傷つけないはずだった。
正しさは、作品を守るためのものだった。
それなのに、
なぜこんなにも、噛み合わないのか。
夕方、撮影が一区切りつく。
スタッフが片付けを始める中、二人は目を合わせない。
言葉を交わせば、
きっと、もう一段深いところに触れてしまう。
だから、何も言わない。
その沈黙だけが、
舞台の本番よりも、重く残っていた。
段取りも、照明も、カメラワークも問題ない。
現場に流れる空気は落ち着いていて、誰もが「いい日だ」と思っていた。
異変が起きたのは、三テイク目だった。
蓮は、台詞を変えたわけではない。
一字一句、脚本通りだ。
だが、言い終えたあとの“間”が、想定よりも長かった。
沈黙。
呼吸。
視線が、ほんのわずかに残る。
モニター越しに、あかりの眉が動く。
「……カット」
監督が声をかけるより先に、あかりが立ち上がった。
普段ならしない行動だった。
「すみません。今のシーン、少しだけ確認させてください」
現場の空気が、わずかに張る。
だが、誰も口を挟まない。
水無月あかりは、この作品の脚本家だ。
彼女が言えば、現場は止まる。
蓮は、モニターの前に立つあかりを見た。
その背中は、まっすぐで、迷いがない。
「このシーンの彼は、もう答えを出している人物です」
あかりの声は、冷静だった。
「迷っているように見える“間”を入れると、
ラストの意味が変わってしまう」
蓮は頷いた。
理解はできる。
構造として、彼女の言うことは正しい。
「分かりました」
そう答えながら、胸の奥に、かすかな引っかかりが残る。
次のテイク。
蓮は、間を詰めた。
テンポは良い。
物語としても、破綻はない。
だが、カットがかかった瞬間、あかりは小さく首を傾げた。
「……違う」
声には出さなかった。
それでも、蓮には伝わった。
もう一度。
今度は、ほんの一瞬だけ、間を戻す。
「カット」
監督が蓮を見る。
蓮は視線を逸らさず、あかりを見た。
あかりは、言葉を選んでいた。
「その……今の“間”は、この人物じゃない」
その言い方が、蓮の胸に刺さる。
──この人物。
蓮は思う。
それは、役の話なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
「じゃあ、どのくらいですか」
蓮の声は穏やかだった。
「どこまでなら、いいんでしょう」
あかりは一瞬、言葉に詰まる。
具体的な秒数や動きでは、答えられない。
「……ここは、もう迷わない場所なので」
それ以上は言わなかった。
蓮は、小さく息を吐く。
「分かりました。役として、やります」
その言葉に、あかりの肩がわずかに揺れた。
役として。
それは、彼女が今、一番聞きたくなかった言葉だったかもしれない。
撮影は続いた。
表面上、何事もなかったように進む。
だが、二人の間には、薄い膜のようなものが張ったままだ。
休憩時間。
あかりは台本に視線を落とし、ペンを走らせる。
修正するほどの変更ではない。
それでも、何かを書いていないと、落ち着かなかった。
蓮は少し離れた場所で、水を飲みながら考えていた。
──翔がいたら。
その考えが、ふと浮かぶ。
翔なら、きっと何も言わず、
だが、迷いもなく、
最初から“踏み込む芝居”をしただろう。
それを止める役を、あかりはしなかったかもしれない。
なぜ、自分には止めるのか。
なぜ、自分は、止められるのか。
その答えを、蓮はまだ掴めない。
あかりもまた、同じ問いを抱えていた。
──私は、脚本家として止めた。
──それだけのはずなのに。
それでも、胸の奥がざわつく。
正論は、誰も傷つけないはずだった。
正しさは、作品を守るためのものだった。
それなのに、
なぜこんなにも、噛み合わないのか。
夕方、撮影が一区切りつく。
スタッフが片付けを始める中、二人は目を合わせない。
言葉を交わせば、
きっと、もう一段深いところに触れてしまう。
だから、何も言わない。
その沈黙だけが、
舞台の本番よりも、重く残っていた。