恋のリハーサルは本番です
第211話 一行の手前で
撮影が終わったのは、予定より少し遅い時間だった。
ロケ地の照明が落ち、スタッフの声も遠ざかっていく。
夜風が、昼間の熱を少しずつ冷ましていた。
蓮は、機材車の横で立ち止まった。
帰るべきなのは分かっている。
だが、足が動かなかった。
「……帰らないんですか」
背後から声がして、振り返る。
あかりだった。
肩に薄手のコートを羽織り、
手には閉じたままの台本を抱えている。
「もう少し、ここにいようかと思って」
蓮はそう答えた。
理由は言わない。
言えない、に近い。
あかりは一瞬迷い、それから隣に立った。
二人の間に、少しだけ距離がある。
沈黙が落ちる。
昼間のやり取りが、まだ空気に残っていた。
触れれば破れる膜のような沈黙。
「……昼のことなんですけど」
あかりが先に口を開いた。
声は低く、慎重だった。
「役として、正しい判断だったと思っています」
蓮は頷く。
「はい。構造としては」
“構造として”という言葉に、あかりは小さく息を吸う。
「でも」
その続きを、彼女はすぐに言わなかった。
夜風が吹き、台本の角がかすかに揺れる。
「舞台のとき……」
あかりは、視線を遠くに向けたまま言った。
「書けなかったんです。
あの一行が」
蓮は、何も言わない。
続きを待つ。
「感情が分からなかったわけじゃない。
むしろ、分かりすぎていた」
その言葉が、蓮の胸に静かに落ちる。
「書いたら、終わってしまう気がして」
あかりは、そこで言葉を切った。
書いてしまえば、
定義してしまえば、
その感情は“舞台の中”に閉じ込められる。
蓮は、初めて彼女の恐れを理解する。
「……だから、役者に委ねたんですね」
「そう」
短い肯定。
「逃げた、と言われたら否定できないけど」
蓮は首を振る。
「逃げではなかったと思います」
あかりは、少しだけ驚いたように彼を見る。
「少なくとも、舞台の上では」
蓮は続けた。
「あれは、逃げてる芝居じゃなかった」
沈黙。
だが、今度の沈黙は、昼間とは違う。
「……ありがとうございます」
あかりは、かすかに笑った。
「それで」
蓮は、ゆっくりと口を開く。
「俺が“待たない”って言った理由なんですけど」
あかりの指が、台本を握り直す。
「全部は、まだ言えません」
正直な言葉だった。
「ただ……待つことで、
誰かに選ばれた“つもり”になるのが、嫌だった」
あかりは、何も言わない。
だが、その沈黙は、拒絶ではない。
「役として選ばれるのと、
人間として選ばれるのは、違う」
それは、昼間から蓮の中にあった答えだ。
「俺は、後者を、勝手に待つのをやめただけです」
“選んでほしい”とは、言わない。
“一緒にいたい”とも、言わない。
それを言えば、
この夜が決定的になってしまう。
あかりは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ずるいですね」
「はい」
否定しない。
「でも」
あかりは、夜空を見上げる。
「それを聞いて、
安心してしまった自分もいます」
蓮は、彼女を見る。
だが、距離は詰めない。
「今日は、ここまでにしましょう」
あかりが言った。
「これ以上話すと、
書けないままにしてきたものを、
書かなきゃいけなくなる」
それは、逃げではなく、選択だった。
「分かりました」
蓮は答える。
二人は、それぞれの方向に歩き出す。
振り返らない。
呼び止めない。
だが、同じことを思っていた。
──次は、もう一歩先に進む。
夜のロケ地に、誰もいなくなる。
その静けさの中で、
書かれなかった一行と、言われなかった言葉だけが、残っていた。
ロケ地の照明が落ち、スタッフの声も遠ざかっていく。
夜風が、昼間の熱を少しずつ冷ましていた。
蓮は、機材車の横で立ち止まった。
帰るべきなのは分かっている。
だが、足が動かなかった。
「……帰らないんですか」
背後から声がして、振り返る。
あかりだった。
肩に薄手のコートを羽織り、
手には閉じたままの台本を抱えている。
「もう少し、ここにいようかと思って」
蓮はそう答えた。
理由は言わない。
言えない、に近い。
あかりは一瞬迷い、それから隣に立った。
二人の間に、少しだけ距離がある。
沈黙が落ちる。
昼間のやり取りが、まだ空気に残っていた。
触れれば破れる膜のような沈黙。
「……昼のことなんですけど」
あかりが先に口を開いた。
声は低く、慎重だった。
「役として、正しい判断だったと思っています」
蓮は頷く。
「はい。構造としては」
“構造として”という言葉に、あかりは小さく息を吸う。
「でも」
その続きを、彼女はすぐに言わなかった。
夜風が吹き、台本の角がかすかに揺れる。
「舞台のとき……」
あかりは、視線を遠くに向けたまま言った。
「書けなかったんです。
あの一行が」
蓮は、何も言わない。
続きを待つ。
「感情が分からなかったわけじゃない。
むしろ、分かりすぎていた」
その言葉が、蓮の胸に静かに落ちる。
「書いたら、終わってしまう気がして」
あかりは、そこで言葉を切った。
書いてしまえば、
定義してしまえば、
その感情は“舞台の中”に閉じ込められる。
蓮は、初めて彼女の恐れを理解する。
「……だから、役者に委ねたんですね」
「そう」
短い肯定。
「逃げた、と言われたら否定できないけど」
蓮は首を振る。
「逃げではなかったと思います」
あかりは、少しだけ驚いたように彼を見る。
「少なくとも、舞台の上では」
蓮は続けた。
「あれは、逃げてる芝居じゃなかった」
沈黙。
だが、今度の沈黙は、昼間とは違う。
「……ありがとうございます」
あかりは、かすかに笑った。
「それで」
蓮は、ゆっくりと口を開く。
「俺が“待たない”って言った理由なんですけど」
あかりの指が、台本を握り直す。
「全部は、まだ言えません」
正直な言葉だった。
「ただ……待つことで、
誰かに選ばれた“つもり”になるのが、嫌だった」
あかりは、何も言わない。
だが、その沈黙は、拒絶ではない。
「役として選ばれるのと、
人間として選ばれるのは、違う」
それは、昼間から蓮の中にあった答えだ。
「俺は、後者を、勝手に待つのをやめただけです」
“選んでほしい”とは、言わない。
“一緒にいたい”とも、言わない。
それを言えば、
この夜が決定的になってしまう。
あかりは、ゆっくりと息を吐いた。
「……ずるいですね」
「はい」
否定しない。
「でも」
あかりは、夜空を見上げる。
「それを聞いて、
安心してしまった自分もいます」
蓮は、彼女を見る。
だが、距離は詰めない。
「今日は、ここまでにしましょう」
あかりが言った。
「これ以上話すと、
書けないままにしてきたものを、
書かなきゃいけなくなる」
それは、逃げではなく、選択だった。
「分かりました」
蓮は答える。
二人は、それぞれの方向に歩き出す。
振り返らない。
呼び止めない。
だが、同じことを思っていた。
──次は、もう一歩先に進む。
夜のロケ地に、誰もいなくなる。
その静けさの中で、
書かれなかった一行と、言われなかった言葉だけが、残っていた。