恋のリハーサルは本番です

第213話 既読にしない

そのメッセージは、夜に届いた。

帰宅して、シャワーを浴びて、
ようやく一息ついた頃だった。

スマートフォンの画面に表示された名前を見て、
あかりは一瞬、指を止める。

──高峰翔。

海外の時間を考えれば、
今でなくてもいいはずなのに。

それでも、彼は送ってきた。

あかりは、しばらく画面を伏せたままにしていた。

開いてしまえば、
そこに書かれている言葉を、
“受け取らなければならなくなる”気がしたからだ。

けれど、逃げる理由も、もうない。

深く息を吸って、画面をタップする。

文面は、驚くほど短かった。

映画化、おめでとう。

あなたが書いたものが、
あなたの手を離れていくのは、
きっといいことだと思う。

それだけ。

未練も、問いも、
舞台のことすら書かれていない。

祝福だけが、そこにあった。

あかりは、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。

──ずるい。

そう思う。

言いたいことがないわけじゃない。

感謝も、後悔も、
言葉にできなかった理由も、山ほどある。

けれど、この文面は、
それらすべてを「もう話さなくていい場所」に押しやってしまう。

あかりは、返信欄を開いた。

白い画面。

カーソルが、点滅している。

一行くらいなら、書ける。

「ありがとう」
「元気で」

それだけで、済むはずだ。

それでも、指が動かない。

──今、返したら。

それは、
書けなかった一行を、
別の形で書いてしまうことになる。

あかりは、そっと画面を閉じた。

既読は、つけない。

それは拒絶ではなかった。

感情を切り捨てたわけでもない。

“もう、この人との物語は、私が続きを書くものではない”
そう決めただけだ。

ベッドに腰を下ろし、
あかりは天井を見上げる。

舞台。

沈黙。

呼吸。

書けなかった一行。

あれは、間違いではなかった。

でも、永遠に保留していいものでもない。

「……今度は」

小さく、独り言のように呟く。

「逃げないで、見ないと」

誰の名前も出さない。

誰かに宛てた言葉でもない。

ただ、
次に書くときは、“委ねるため”じゃなく、
“引き受けるため”に。

スマートフォンは、机の上に伏せたまま。

画面は暗い。

翔は、もう戻らない。

戻る必要もない。

その不在が、
ようやく、あかりの中で“整理された過去”になる。

そして同時に、
現在の輪郭が、少しだけはっきりする。

──今、隣にいる人は誰か。
──これから向き合うべき相手は誰か。

その答えを、
あかりはまだ口にしない。

だが、
もう視線を逸らすことは、できなくなっていた。
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