忘却の蝶は夜に恋う
イスカーチェリ・ハインブルグ。誰もが恐れる皇帝を味方にし、ノクスとの婚約を押し進めたかと思いきや、自宅にまで現れた彼女は何者なのだろうか。
イスカ自身のことは全く知らないが、彼女の生家であるハインブルグ家の名は知っていた。
ハインブルグ家はこのオヴリヴィオ帝国の公爵家の一つだ。生まれた子が娘ならば妃に、息子は皇族の忠臣に、そして数代おきに皇女が降嫁している。
初代当主が臣籍に降った皇子であり、その数代後の当主が帝国史上でひとりしかいない女帝の伴侶になった頃から、皇族と深い縁で結ばれている一族だ。
そんな高貴な家のご令嬢であるイスカをノクスは知らなかった。いくら女に興味がないとはいえ、大貴族の出の人間ならば名前くらいは頭の片隅に残っているものだが、不思議なことに彼女を知っているのは皇帝派と呼ばれている派閥に属する人間だけだった。
オヴリヴィオ帝国の中枢である皇宮は今、二つの勢力に分かれている。一つ目はひとりの弟皇子を除いた皇族を皆殺しにし、玉座に就いた現皇帝・ヴィルジールに従う皇帝派。二つ目は現皇帝のやり方が気に入らない反皇帝派だ。
ノクスは宰相補佐官という立場上、皇帝派の人間であるが、実のところはどちらでもいいというのが本音だった。