忘却の蝶は夜に恋う


「────は?」

 月が色濃くなる頃、イスカはノクスの部屋を訪ねた。それも正面からではなく、邸の外から壁をよじ登って。

 無論、ノクスは口を半開きにしたまま固まっている。彼の不機嫌な顔と無表情しか見たことがなかったイスカは、今の表情があまりにも面白いものだからけらけらと笑い出した。

「こんばんは、婚約者殿」

「…………」

「おや、驚いて声が出なくなったかい?」

「…………いや」

 ノクスは呆れたようにため息を吐くと、イスカの方へと近寄ってくる。窓越しに向かい合うかたちになると、ノクスは珍獣でも見るような目でイスカを見下ろし、軽く肩を落とした。

「セバスチャンが言っていたのはこういうことか」

「どんなことだい?」

 なんでもない、とノクスは呟くと、ほんの少しだけ窓を開けた。腕が通るか通らないか、それくらいの間隔だ。部屋に通す気はないようだが、話はしてくれそうだ。

「わざわざ窓から来て、僕に何の用だ?」

「親睦を深めに来たのさ」

「僕にその気がないと言っても?」

「その前に、私を部屋に入れてくれないか? このままでは手足を滑らせて落ちてしまうよ」

 イスカは悪戯っぽく笑いながら下を見遣る。近くの木を伝い、壁の所々にある出っ張りに脚を掛けて登ってきたイスカは、目的地であるノクスの部屋の窓に到着するや否や息切れを起こしていた。

 ノクスは今日で何度目か分からない溜め息を吐くと、窓を全開にするべく鍵に手を掛けた。
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