忘却の蝶は夜に恋う
「いいか、貴様にイスカーチェリは渡さない」
そんなふうに言われたところで、ノクスにはどうすることもできないというのに。
「お言葉ですが、私は──」
「そこまでにしてくれないか。セドリック・オールヴェニス」
望んで婚約したわけではない、と言い返そうとしたノクスの言葉を遮ったのは、この場には似つかわしくない、涼やかな声だった。
ノクスの背後から影が伸びる。声の主はヒールを履いているのか、軽やかな音を回廊に響かせながら近づいてきた。
セドリックが瞬時に表情を変え、ノクスから手を離す。そして今の今までノクスと話していた時とは別人のような顔を作ると、何事もなかったかのようにノクスの横を通り抜けた。
「久しぶりだね、イスカ。元気にしていたかい?」
ノクスは首元のタイを結び直しながら、背後を振り返る。そこに居たのはやはりイスカだった。何をしにきたのかは分からないが、ノクスと目が合うなり嬉しそうに笑った。
「会えてよかったよ、婚約者殿。忘れ物を届けにきたんだ」
「……忘れ物?」
イスカはセドリックに一瞥もくれずに、ノクスのもとへ歩み寄ってくる。それがあり得ないことだったのか、或いは気に入らなかったのか──セドリックがイスカの肩に触れた。
だがイスカはそれを手で振り払った。