忘却の蝶は夜に恋う
「軽々しく触れないでくれないか。私には婚約者がいる」

 セドリックは軽く目を見開いた。イスカの言葉が意外だったのだろうか。

「……そう、だったね。失礼したね」

「まったくだ。もう二度と、私の婚約者殿に失礼なことをしないでくれ」

 イスカは微笑みを浮かべながら、彼女にしては硬い声でセドリックに釘を刺すように告げる。気づけば周囲には人が増えており、それが彼の状況を悪くさせたのか、セドリックは立ち去っていった。

 イスカは今度こそノクスと向き直った。

「やあ、婚約者殿。セバスチャンに頼まれて、お弁当を届けにきたよ」

 はい、と差し出されたバスケットには、見覚えのある布が掛けられている。

 ノクスはバスケットを受け取り、嬉々とした表情でいるイスカと手元を交互に見てから、訝しげな顔をした。今朝の黒いパンのことを思い出したのだ。

「……まさか貴女が作ったものか?」

「まさかとは何だ、まさかとは。残念ながら、私ではないよ。だから安心して食べたまえ」

 ほっと胸を撫で下ろしたノクスを見て、イスカはくつくつと笑った。顔に出したつもりはなかったが、彼女には伝わっていたらしい。

「では私はこれで帰るよ。世のため人のために、頑張ってくれたまえ」

「……ああ」

 イスカは目的を遂げたことに満足したのか、手をひらひらと振りながら去っていった。彼女はこれから城のどこかに寄るのだろうか。それとも──。

(……帰ったらいるんだろうな)

 ノクスは手元のバスケットを見つめながら、ほうっと息を吐いた。
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