忘却の蝶は夜に恋う
「いつまでそこに這いつくばっているつもりだ」
「ははっ、すまないね。よじ登っただけで疲れてしまって」
それはそうだ、とヴィルジールは呆れたように呟くと、イスカの手を引っ張り上げる。
ヴィルジールの手を借りて立ち上がったイスカは、衣服の埃を落とすように叩きながら、きょろきょろと辺りを見回した。
「おや、今日はエヴァンはいないのかい?」
「エヴァンなら、茶器を取りに行ったが」
エヴァンはこの国の宰相であり、ヴィルジールの幼馴染でもある男の名だ。どうやら今は宰相自ら厨房に出向いて、お茶の用意をしているらしい。城には使用人が何百人もいるというのに。
イスカはくつくつと笑ってから、澄ました顔で執務机の前に戻ったヴィルジールを見遣った。
艶やかな銀色の髪に、宝石のような青い瞳。目が覚めるほど美しい青年であるヴィルジールは、この国の皇帝だ。
逆らうものには罰を、罪を犯した者は氷漬けに。その冷酷無慈悲な姿からついたあだ名は“氷帝”。
ヴィルジールは誰もが恐れる男だが、イスカにとっては幼馴染の一人だった。
「聞きたいことがあって来たんだ」
イスカの爽やかな声に、ヴィルジールが書類から顔を上げる。