忘却の蝶は夜に恋う


 ノクス・プルヴィアは平民出身でありながら、史上最年少で政官の試験を突破した男である。

 艶めくような黒髪に、切れ長の青色の瞳。肌が雪のように白い為、一見すると女性と見紛うほどの端正な容姿である。

 一度見たら忘れられない美貌の持ち主であるノクスだが、政界の星と謳われる一方で“死神政官”と恐れられてもいた。

「──一体どういうことでしょうか」

 ノクスは不機嫌を宿した声で問いかけた。同時に婚約の命令文書を突き出したが、皇帝であるヴィルジールはそれに一瞥もくれずにペンを走らせている。

「今度はお前か。何の用だ?」

「分かっておられますよね。婚約の件です」

「それがどうした」

 ノクスは執務机に両手をついた。誰かに見られたら間違いなく不敬罪で訴えられるが、今は誰もいない。眉一つ動かさないヴィルジールの顔を覗き込むと、ノクスよりも淡い青色の瞳と視線がぶつかる。

「一体どういうことですか? よりにもよって、公爵家の令嬢など」

「男爵家の女なら良かったのか?」

「そういうことではありません。──言ったはずです、僕は結婚はしないと」

「これは命令だ」

 ヴィルジールはノクスを拒絶するように目を伏せると、もう下がれと言わんばかりに手を振る。納得がいかないノクスは食い下がろうとしたが、ヴィルジールが立ち上がったのを見て押し黙った。

「少しの間でいい。あいつの気が済むまで、付き合ってやってくれ」

「……それは、どれくらいでしょうか」

 ヴィルジールは「さあな」と告げると、ノクスから窓へと目を動かした。窓の向こうの曇り空へと向けられた視線に、いつもの刺々しさはない。その物憂げな横顔を見ているうちに、ノクスは何も言えなくなってしまった。
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