忘却の蝶は夜に恋う
「…………は?」
ノクスを出迎えたのは、勝手に取り決められた婚約者であるイスカだった。いつも玄関まで駆け寄り出迎えてくれるセバスチャンの姿はなく、何故かイスカが仁王立ちで──それも清々しい笑顔でいる。
「お勤めご苦労様だね。いつも帰宅はこの時間なのかい?」
「……何故貴女が僕の家に?」
「質問に質問で返さないでくれたまえよ、婚約者殿」
イスカはけらけらと笑いながら、ノクスの足元に落ちた鞄を拾い上げた。ほら、と鞄を突き出してきた彼女の眼差しは、幼い子供のようにきらきらと輝いている。
ノクスはため息を吐いてから、鞄を受け取った。
「……いつも通りだ。それで、貴女はどうしてここに?」
「どうしても何も、私は君の婚約者なのだから、別に不思議なことじゃないだろう」
「その理由を聞いているんだが」
ううん、とイスカは首を捻る。それから数秒置いたのちに、彼女は「花嫁修行だ」と元気に答えた。
「……花嫁修行?」
「ああ。良き妻となるために必要なことだろう」
「…………」
ノクスは今度こそ言葉を失った。誰がノクスの家の場所を教えたのか想像はつくが、本人の意思を無視して勝手に事を進めるにも程がある。
「どこか悪いのかい? 婚約者殿」
イスカが心配そうな面持ちで、ノクスの顔を覗き込んでくる。
ノクスは伸ばされた手を振り払い、イスカを置いて自室へと向かった。