忘却の蝶は夜に恋う


 やってしまった。イスカは振り払われた時にぶつかった手を眺めながら、ゆっくりと息を吐ききった。

 ノクスはイスカとは違う。おはようと言ったらおはようと返すような人ではない。手を振ったら、同じように振り返してくれる人でないことはイスカも分かっていた。

 分かっていても、手を伸ばしてしまったのは──望んでいたからだ。同じ歩幅で、同じ道を歩いていきたいと、願ってしまったから。

 だがこの婚約はイスカが一方的に願い出て、第三者の権力によって叶えられたものだ。欠片も望んでなどいないノクスからしたら、ただの迷惑でしかない。

(──だとしても、私は)

 イスカは遠ざかっていくノクスの背中を見つめながら、ゆっくりとまぶたを下ろした。

「先は長いね」

「だからこそ楽しいのですよ。恋というものは」

 イスカの独り言に返事をしたのは、この邸の唯一の使用人であるセバスチャンだった。年齢は五十を超えているが、そこらの若者よりも活力がありそうな人だ。

 自慢の髭を弄りながらノクスの背を見つめる眼差しは、孫を見つめる祖父のような温かさを感じる。

「恋とはどんなものだろうね」

「ご令嬢はノクス様に恋をされたから、婚約を申し込まれたのだと思っていましたが」

「いいや、これからする予定だよ」

 イスカはセバスチャンと向き直り、口元を綻ばせた。唇に人差し指をそっと当て、ささやくような声で続ける。
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