忘却の蝶は夜に恋う
「私は彼と恋をするために、婚約を申し込んだのさ」

「結婚してから恋愛をするのは、貴族様にはよくあることなので?」

「どうだろうね。他者の恋愛事情は知らないが、私は私がしたいようにしているよ」

 セバスチャンは不思議そうに首を傾げた。

 イスカは「それではまた」と優雅に一礼すると、先刻案内されたばかりの客間へと向かった。

 ここは城下町の一角にあるノクスの邸だ。イスカが生まれた公爵家の邸と比べると、広さは半分以下。家具や調度品に華美なものはなく、どれもひと昔前のデザインだが、不思議と居心地のいい空間だった。

 ノクスの役職である宰相補佐官は、言葉の通り宰相の補佐をするのが役割だが、その実態は宰相と変わらないという。国にひとりしかいない宰相の分身として、執務室で丸一日書類の山に埋もれる日もあるのだとか。

 平民の出であるノクスが政官を志しただけでも凄いことだというのに、彼は史上最年少である十七歳という若さで試験を突破した。それも、首席で。

 褒美に何が欲しいかと尋ねた皇帝に、ノクスはこう返したそうだ。──老人と二人で暮らせる家を一つ建ててくれ、と。

 ノクスは日々多忙を極めているそうだが、必ず夕方には帰宅するという。セバスチャンから得た彼の情報を手帳に書き込んでから、イスカは長い髪を後ろで一つに束ねた。
< 9 / 34 >

この作品をシェア

pagetop