「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 アンジェリカは顔を横に向けて、整った相貌から目を逸らした。視界に入るヴィルヘルムの右手には、自分の巻いたハンカチが結ばれている。

 なんてことはない。音だけは大きく立てたが、この肩に置かれた手はそこまで強い力ではない。
 男の力で本気で組み敷かれれば、アンジェリカに是も非もない。そして、思いの外そっと、ヴィルヘルムはアンジェリカを横たえたのだ。

 やっぱりずっと、この人はやさしい。
 もっと無理やりにすることだって、いくらでもできたというのに。

「……して、ませんよ」

 本当は誰にも話したくなかった。知られたくなかった。これは王女としての、女としてのアンジェリカの敗北で、失態だった。

「殿下は、ご結婚されてからわたしを求められたことはございません」

 けれどもう、このヴィルヘルムに嘘を吐くことはしたくない。

「えっ」

「あの時嘘を吐きました。偽りを申し上げて、申し訳ございませんでした」

「いや、それは多分オレのせいだから、いいんだけどさ」
 覆い被さる男が分かりやすく狼狽えたのが分かった。

「なんでなんだよ」
 それはこっちの台詞である。

「アンは、こんなに可愛くて、いいやつなのに」

 肩をぐっと掴まれたかと思えば、また強制的に見つめ合わされる。灰青の瞳は興奮しているのか紫かがっていて、ヴィルヘルムはまくし立てるように続ける。

「どう考えてもおかしいだろ、なんなら今すぐ」

 そこまで言ってしまってから、ヴィルヘルムははっと我に返った。

「ご、ごめん、なんでもない」

 今度はヴィルヘルムがそっぽを向く番だった。顕になった首筋までが真っ赤で、色素が薄いからよく分かるな、などと実感した。

 もっとも、そんなこと二十八歳のヴィルヘルムといる時には一度も思わなかったけれど。

「未来のオレ、どんなやつだったんだろうな」
< 40 / 94 >

この作品をシェア

pagetop