「君を愛することはない」と言った夫が、記憶だけ16歳に戻ってまた恋をしてきます
 鼻先が触れ合うほどの距離。けぶるような白銀の睫毛が震えている。
 そんなところで、見つめ合った。

 惹き込まれたように、息もできなかった。
 流れる空気の甘さに酔う。どちらからともなく近づいて、こつんと、額が合わさった。

 あと、もう少し。もう少し近づいたら、その唇に触れてしまうと思ったところで、

「はっ!」

 夢から覚めたように、その胸板を押し返して俯いた。

 わたしは今、一体何をしようとしていたのだろう。
 火照ったように顔が熱くなるのをどうしようもできない。

「いや、そのオレもさ、そんないきなりするのはどうかと、思うし」

 ちらりと盗み見れば、ヴィルヘルムもぽおっとした顔で何かを考えている様子だった。
 
「呪いって、どこのキスでも解けちゃうのかな」

 場所によって、口づけの意味は大きく異なる。

 さすがに唇に口づけるのは恋人か夫婦ぐらいだろうが、頬や手の甲なら儀礼の範疇で王太子妃たるアンジェリカも受けることはある。

 魔術師団長は、呪いを解くために必要なのは“愛する者の口づけ”としか言わなかった。

「だ、だめです!」

 解けるという保証はない。けれど、解けないという確証もない。

 ヴィルヘルムは、呪いが解けたら今の自分の記憶が消えてしまうということを知らない。だからちゃんと、アンジェリカがこれを、拒まなければならない。

「分かってるよ。あんたが嫌がるようなことはしたくないし。その、段階があると、思うから」

 ぎゅっと抱き寄せられて、首筋に吐息が触れた。

「でもさ」

 ぴたりと、ヴィルヘルムはアンジェリカの首筋に頬を当てる。火照ったアンジェリカの頬と同じぐらい、それは熱かった。

「今あんたにキスできたらいいのにな、って思ったんだよ」

 それはアンジェリカの心に浮かんでいたものと、同じものだった。
 そして思った。

 わたしはもう、この人の呪いを解いてしまえるかもしれないと。
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