Existence *
「…翔くん?」


暫く経って聞こえた声に頭を上げる。

視線を上げた先に実香子が居て、その足は進んで俺の隣に腰を下ろした。


「俺にとっちゃ、病院ってところが切っても切れないとこってやつかな」

「なに?急にどうしたの?」


実香子は意味不明な俺の言葉にクスクス笑みを浮かべる。


天網恢恢(てんもうかいかい)――…」

「…――()にして漏らさず。って?」

「そう」

「なによ、急に。むしろそんな言葉、今時使わないけど」

「そうだなぁ…。一生ここの空間を忘れるなって事。いつかは俺もまたここに来る」

「もう、やめてよ。そんな事言わないでよ。…ほんと、どうしたの?」

「いや、ただ昔を思い出しただけ。…来てくれて、ありがとう」

「ううん。私も会いたかったから」

「実香子には感謝してる。また美咲に会わせる」

「うん」


実香子と別れた後、俺は迷うことなく病室へ向かい、その扉を開ける。

入ってすぐに俺の顔を見て、お母さんは笑みを零した。


「…心配しないで」

「……」


第一声の言葉がそれだった。

ほんと、なにこの親子。


…――大丈夫だから心配しないで。

昨日言った美咲の言葉が頭を過る。


「翔くん?」

「はい」

「もう、私は長くはない。自分の身体だからわかるの」

「……」

「美咲の前では笑顔で全うしたいと思ってる。美咲はどう思ってるか分からないけど、美咲の母親で良かったって、そう思ってる」

「……」

「沢山、苦労掛けてきて、沢山、苦しい思いもさせてきた。そして、翔くんにも。…ごめんね」


潤んだお母さんの瞳から一粒の涙が伝った。

それをかき消す様にお母さんは笑って、その涙を拭う。


「俺はなんにもしてないですよ。…むしろ色々と思い出させてもらいました」

「…え?」

「いえ、なんでもないです」


奥深くに眠る感情が今になって出てきてしまった事。

忘れてはいけない過去が再び湧き上がってきてしまった。
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