シンデレラ・スキャンダル
 それでも小心者のわたしは一夜限りの関係なんてものは結べなくて、新しい一人の男に決める勇気もなくて、結局全ての男をかわして、この男の元に戻ってきてしまう。両手にいくつもの紙袋を抱えるわたしを見て、余裕のある微笑みを浮かべるこの男。

「卓也……」

 相変わらず、人に害を与えることなんてなさそうな顔。善良、その言葉がぴったりだ。整えられた髪にオーダーメイドのイタリア生地スーツは、相手に隙を感じさせない。

「綾乃、今日の弁護士はどうだった?」

「……どうして弁護士だってわかるのよ」

「綾乃のことならわかるよ」

 おもむろにわたしの腕を掴んで力任せに引き寄せるから、わたしの体は勢いのままに卓也の胸にぶつかった。

「弁護士と会ってうんちく聞かされて、疲れましたって顔してる」

「どんな顔よ」

「どうせ勉強だけをしてきたお坊ちゃんだろ。綾乃のこと何も知らないんだな」

 ——あなたはわたしのことがわかるの?

 なんでもわかっていると言いたげな顔を見つめても、欲しい言葉は返ってこない。

 どうして、そんな顔ができるのよ。結婚を前提にお付き合いをしてほしいって言う人だっている。いますぐに結婚してほしいって言う人だっているのよ。わたしを欲しいって言ってくれる人がたくさんいるの。

 それなのに、目の前の男は少しも気にしてくれない。綾乃もイイ女になってきたねなんて、気持ちなんてひとかけらもないくせに、わたしに口付けて抱き締める。口の中にタバコの苦みが広がって、体がその香りに包まれる。

 わたしを捨てたくせに。わたしを傷つけたくせに。

 この男に抱かれる度に、深く暗い海の底に沈む。緑なのか青なのかもわからないほどに濁って、太陽の光なんて届かないそこには、なにも存在しない。熱を帯びた体が、胸の冷たさを際立たせて、頭の中だけがより静かになっていく。より深く、それこそ体内にまで侵入しているのに、触れあう距離に人間がいるのに、少しも温かくない。

 高級ホテルの高層階は、静まり返ってなんの音も聞こえない。どうしようもない虚無感だけがそこに存在している。あの時と同じように、真っ黒な天井を見つめながら。この男ともう一度一緒に過ごすことができたなら、そう毎日のように願っていたはずなのに。

 眼下に広がるきらびやかな夜景を見下ろして、いつもどおり一睡もできないまま、始発の時間を迎えた。布団にくるまっている人間は、動き出すわたしには気づかない。


 朝陽に染まる海を見ながら、電車に揺られて家路に着く。

 着ていた服を洗濯機に投げつけるようにして入れると、そのまま浴室に向かう。背中まである髪を手早くまとめ、浴槽に熱めのお湯を溜めて、灯りを点けずにそれに浸かれば、ようやく深く息をつけた。

 手を動かすたび、足を動かすたび、ぽちゃんぽちゃんと間の抜けた音が浴室内に響いた。

◇◇◇

 あの時のお風呂の音と似たような水音を聴きながら、瞼を開ける。シャワーを終えて、鏡の前に呆然と立った。

 特別綺麗でもなかったわたしは、死に物狂いだったのだ。肌も髪も全てのケアを怠らず、メイクを学び、理想の体になるためにダイエットとトレーニングに励んだ。

 たくさんの男と遊んで、余裕のある笑みで男の心を翻弄する。メイクは派手に。服装は華やかに。この男から買い与えられる高級ブランドの服とアクセサリーを身に纏い、十センチのヒールで大理石の床を鳴らす。

 街中でも、レストランでもホテルでも、すれ違う人間が思わず振り返るその容貌(カタチ)。この男が満足そうに笑えば、《《特別》》に近づいている気がした。

 それなのに、少しも満たされない。何かを手にした感覚も、何かを達成した感覚もない。一生懸命歩き続けているはずなのに、ふと見たその床がウォーキングマシンでどこにも進んでいなくて、ただひたすら同じ場所に留まっている、そんな感覚だけがある。止まればマシンから落ちてしまうから、また歩く。歩いても歩いても、景色なんて変わらない。ずっと小さな箱の中だ。

 ——苦しい。

 心を締め付けられるような声が頭の中で響く。その声は確かに聞こえるのに、少しも温かさを感じないのに、そこに戻るわたしが一番どうかしている。そんなことはとうの昔に気づいている。

 龍介さんの声が、笑顔が、それらをかき消すように脳裏にやきつく。過去と今がぐちゃぐちゃになって混ざっていく。

「なにを、やってるのかな」
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