治療不可能な恋をした
理人の講演が終わり、再び場内に拍手が響く。
壇上から降りてきた理人は、何事もなかったような顔で梨乃の隣に腰を下ろした。梨乃もまた、顔に出さないよう努めながら前方に視線を向け直す。
その後も、別の演者による講演が続いていた。
モニターに映るスライド、響く声。それなりに興味深い内容だったはずなのに──梨乃の耳はどこか上の空で、思考がさざ波のように揺れていた。
(なんで……当たり前みたいに隣にくるんだろう)
心のどこかが甘く痺れながらも、梨乃は隣に目を向けることはできなかった。
そんなとき、横からそっと、メモ帳の切れ端のような小さな紙が滑り込んできた。
なにげない風を装って、無言で差し出されたメモ用紙。ちらりと目を落とすと、そこには走り書きの文字。
──「発表、良かった」
それは理人の、カルテで見慣れた字体だった。
「っ……」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がきゅうと締めつけられる。
会話ひとつない静かな空間のなか、紙に視線を落としたまま、梨乃は手元のボールペンでそっと一言だけ書き添える。
──「逢坂くんも、お疲れさま」
小さな字で、それだけ。
折りたたんで、何気なく理人の目の前に滑らせるように置いた。顔はそちらを向けないまま、真正面だけを見つめている。
数秒後、視線の気配だけが横から刺さる。
見なくてもわかる。彼がこちらを見ているということが、なぜか手に取るようにわかった。
でも、梨乃は顔を向けなかった。
スライドを見ているふりをして、前を向いたまま、心臓の音だけを静かに聞いていた。
まるで、胸の中で何かがゆっくりと、色づいていくような──そんな瞬間だった。