最難関攻略キャラ、愛しのルカ様は今宵私の手のひらで踊る
***
それぞれの別れから三週間が過ぎた。王都は見た目だけは平穏を取り戻したが、その静けさはいつまで経っても作りもののようだった。通りを歩く兵の表情は硬く、人々の笑顔もどこか不自然に引きつっている。まるで全員が何かを忘れたふりをしているようだった。
私は今、中央情報局の一室にいる。分厚いファイルの山。燃え残った羽の紋章の解析記録。どれを開いても真実には届かない。“羽の王”の存在は、報告書から完全に削除されていた。誰かが意図的に消しているようだ。その確信だけが残った。指先にインクの匂い。トレイの金属光沢が窓の光を反射していた。
「トウコ、少し休憩しなさい」
紅茶を持って現れたのはセシリア嬢だった。かつては恋のライバルだったが、状況も状況である。彼女はその立場を存分に生かして、情報収集を行ってくれている。
「セシリア嬢に紅茶を注いでいただくなんて、恐れ多いです」
「何を言っているの今更。トウコはとっくにメイドの範疇を越えているじゃない。しかも最初からずっとね」
私は笑いながら紅茶を口にした。ルカ様、ギブン様、カイ様、アデルさん。みんながどうしているのか気になるが、仕事が手につくのはこうやって定期的に顔を出してくれている彼女のおかげだ。……ルカ様をめぐっての戦いはあるけど、なんだかんだずっとセシリア嬢のことは好きなのよね。ただゲームをプレイしてた時よりもずっと。
私たちは資料を見ながら意見交換をし、紅茶が完全に冷め切った頃、セシリア嬢は公務のために部屋を後にした。
昼下がり。手元に一通の封筒が届いた。見慣れた筆跡。封蝋の印章には「北療区第六班」の刻印。——ルカ様だった。封筒を持つ指が震えた。ゆっくりと封を切り、紙を広げる。
トウコへ
王都の空はまだ曇っているか。こちらは雪が降り始めた。しばらく戻れそうにないが、
それでも俺は“あの夜の答え”をまだ渡せていない。だから、もう少しだけ待ってくれ。俺が必ず自分の言葉でお前に伝える。次に会う時、君を選ぶ。——ルカ
手紙を読み終えた瞬間、胸の奥で何かがじわりと溶けた。
「……ずるいです、ほんと」
笑って涙が滲む。何も終わっていないのに、それでも一つの章が閉じる音がした。窓を開けると風が頬を撫でた。どこからか雪の代わりに白い羽が一枚舞い込んできた。私の掌に落ちたそれは焦げ跡もなく、まっさらな白。私はそれを見つめながら小さく呟いた。
「あなたの“羽”なんかに私の心は奪わせない」
机の上の懐中時計が小さく音を刻む。その針の音が遠く離れた誰かの鼓動と重なって聞こえた。
その夜、街の灯がまた一つ落ちた。情報局の窓の外、屋根の上を黒い影が走る。風が吹き抜ける。あの“羽”の紋章が、一瞬だけ瓦礫の上に光った。……大好きなナリコイの世界に来て舞い上がってたけど、いつの間にか乙女ゲームは心理戦、アクション、推理何でもありになってたな。でも、元の世界よりも幸せだって思える自分がいるの。何もまだ終わっていない。でも私はもう怯えない。
私はトレイを腰に差し、立ち上がった。明日からまた歩ける。扉の前で一度だけ振り返る。そして微笑んだ。
「ルカ様——」
囁くように名を呼んで、唇で言葉を結ぶ。……ずっと踊らされているのは私の方ね。だったら――。
「……この物語は終わらせません。だってまだ、あなたを私の手のひらで躍らせてませんから!」
その声は風に溶け、夜の王都に静かに消えていった。
***
王都の冬は、どこまでも静かだった。焦げ跡の残る街角を風が撫で、修復途中の石壁に陽が射し込む。それでも人々は歩いている。笑いながら、泣きながら、少しずつ。私――トウコは、王都中央情報局の地下室にいた。机の上には、焼け焦げた資料の山。その一枚一枚に、“羽”の紋章が残っていた。
「三週間。これだけ燃やされてよく残ってたものね」
背後で、柔らかくも芯のある声が響く。セシリア嬢は彼女の金髪は火の粉の跡もなく、白い手にはインクの染みだけが残っていた。
「まだ王の記録は見つかりません」
「見つかってしまえば、逆に罠かもしれないわ」
私が顔を上げると、彼女は微笑んだ。その笑顔はかつて舞踏会で見せたものより、ずっと静かだった。
「……貴女が守ってくれたから、今がある。私は何度もあなたに救われてきた。たとえ恋敵であってもそれに変わりはないわ」
「お礼は結構です。私が勝手に動いただけですから」
「そう。でももう一度、動かせてしまう女なのよね。貴女は」
冗談めかした声。だけどその奥には、また嵐が来るという予感があった。
――北の療養所。雪が静かに屋根を覆っていく。氷点下の風が吹くたび、針葉樹の枝がわずかに軋んだ。白い寝台の上で、ルカは上体を起こした。包帯が巻かれた腕がまだ痛む。窓際には、軍服を畳んだまま置いてある。
「無理をすれば、また傷が開きますよ」
医師の声に彼は淡く笑った。笑顔なのにどこか遠い。
「……無理はしていない。まだ、止まっていただけだ」
窓の外。雪原を横切る郵便馬車が見えた。その背に、小さな封筒が揺れている。看護兵が入ってきて、封筒を差し出した。
「王都からです」
彼は指先で封を切った。筆跡を見た瞬間、まぶたが震える。
――ルカ様
王都は落ち着きを取り戻しました。
けれど、北の刻印が資料にありました。
あなたの療養地の座標と一致します。
だから帰ってきてください。——トウコより”
手紙を握る。掌の中でインクのにおいが溶けていく。
「……やはり、お前が呼ぶ」
息を吐き、外套を羽織る。医師の制止も聞かず彼は扉を開けた。白い息が夜に消える。銀の髪が風に揺れた。
一方その頃。南の国境沿いではギブンが検問所で剣を鞘に収めていた。カイとアデルが並ぶ。
「で、俺たちは防衛再編とかいう新部署の実験台か」
「実験でも、目的があればいい。……トウコが王都にいる」
「つまり、動くわけだな。ルカ殿下が」
ギブンがひとつ笑った。その笑いは痛みを隠すような、長い旅の笑いだった。
「……行くぞ。再び、舞台の上に立つ時だ」
***
三日後。王都北門の外、駅馬車の宿。風が雪をまき、焚き火の煙が空へと伸びる。私はトレイを抱えて白い息を吐いた。冬真っ盛りといったところだ。指先がかじかんでフル植える。……っ、寒い。冬は特に炬燵で温まってゲームしていたから寒さ体制がない!
そこに雪を踏む音――一つ、二つ。見慣れた銀が霧の向こうに立っていた。
「殿下……!」
気づけば走っていた。スカートの裾を握りしめ、雪を蹴る。手が届いた瞬間、足が止まった。彼は変わらない。けれど少しやつれたようにも見えた。……療養に行ったはずなのに何でやつれているの⁉ でも生きているだけできっとすごい事なのよね。
それでもその瞳はあの夜と同じ色をしていた。
「無事で……よかった」
「……呼ばれた気がした。お前の声が風の中に混じっていた」
「まあ、私手紙で実際呼びましたからね」
その瞬間、背後から聞こえる声。
「おいおい、王都劇場かここは」
「照明が足りないな」
「み、皆さんっっっ‼ お久しぶりです!」
ギブン様、カイ様、アデルさん。雪の道を並んで歩いてきた。誰もがそれぞれの傷を抱え、それでもまた――同じ場所に帰ってきた。セシリア嬢も遅れて現れ、馬車のランプの光の中で微笑んだ。……嬉しい、また集まれたなんて。もちろん集まった理由はわかっているけれど、それでも今はいいの。
「これで全員ね。あとは踊るだけ」
「踊る?」
セシリア嬢は意味深に目を細めて言った。
「戦場という名の舞踏会。貴女の得意分野でしょう?」
ルカ様が目を伏せた。雪の光がその横顔を静かに照らした。
「……行こう。灰峠へ」
馬車の車輪が、雪を巻き上げて動き出す。私はトレイを抱きしめ、息を吸い込んだ。冷たい空気の向こうに、もう一度始まる物語の匂いがした。
王都を発つ朝は、息を吐くだけで指先が痛かった。修復途中の塔の鐘が低く鳴る。奇跡の再結集からわずか数日、私たちは再び動く。
「——灰峠の調査、ですか」
「表向きはな。実際は“羽”の残党の捜索だ」
ギブン様が地図を広げ、赤い線で峠を指す。線の終点には小さく北港の文字。そこはかつて、薬の原料が密輸された港でもあった。
「連結所を通って、港で金になる。……だから、誰かが流してる」
「誰か?」
私は問う。ギブン様は答えず、地図の端を折り曲げた。
「上の誰かだ」
セシリア嬢が口を閉じる。沈黙が部屋に落ちた。
「王国会計局の監査官たち。彼らが“羽”の残党を匿っているとしたら?」
カイ様の声が鋭く響く。アデルさんが低く唸る。
「王族を囮にするしかない、ということなのですね」
その言葉にルカ様がわずかに口角を動かした。それは笑いとも覚悟ともつかない表情。
「囮なら慣れている、もちろん引き受けよう」
「駄目です!」
思わず声が出た。彼がこちらを見る。その眼差しが、まるで“戦場”よりも鋭くて、息を呑んだ。
「お前は、補給線を見ろ。……俺は前線を割る」
「補給線は心臓です。心臓と刃は離れては動けません」
「何が言いたい」
「どこに行くにも私がいます。勝手に決めないでください」
その言葉を口にした瞬間、ギブン様が低く笑った。
「相変わらずいいコンビだなぁ。殿下とメイドとは思えないぞ?」
「……コンビじゃありません。どう考えても主従です」
「どっちでもいい。どっちにしろ、互いに目を離せないらしい」
その会話に、ルカ様が微かに目を伏せた。手の甲の古傷が、薄く赤く見えた。
「——分かった。なら来い」
「はいっ」
返事をしてしまったあと、胸の奥が熱くなる。怖くて、でも嬉しかった。再び、推しと戦場に立てる。あの夜、私が誓った通り。“今度こそ、あなたを手のひらで踊らせてみせる”と。……その前には片付けなければないことがたくさんあるけどね。待っていて、羽の王。貴方のすべてを暴くから。
峠の風は刃物みたいだった。馬の蹄が石を蹴るたび雪が舞う。大雪の中、三列目の荷車が溝に落ちて進軍が止まる。
「トウコは後列に指示を」
「了解っ!」
私はトレイを掲げ、反射光で信号を送る。荷車の横でロープを巻くアデルさんの腕が震え、カイ様が無言で支える。
「右前輪、浮かせろ! せーの……今だ!」
歯を食いしばり、足を踏ん張る。雪に混じって血の匂いがする。その瞬間、山頂から火花が走った。
「砲撃だ‼」
ギブン様の声と同時に、馬を庇って跳ねた。弾丸が荷の袋を裂く。中から薬瓶が転がる。私はトレイで弾をはじきながら叫ぶ。
「殿下、遮蔽物に後ろに」
「下がれ、お前が——」
「またそれですか!」
彼が目を細める。そのわずかな間に、私は前へ飛び出していた。雪上を滑るように駆け、トレイの裏面で敵の腕を受け止める。カンッーー久しぶりの衝撃が腕に走り、息が詰まる。でも私はもう退かない。推しの前ではもう二度と退けない。敵がもう一人、後方から飛び出す。私は荷車のフックを外して鎖を掴み、トレイと繋いで回した。フレイルのように振り回し、敵の刃を逸らす。
「いけっ」
「さすが“補給係”だな」
ルカ様の低い声。次の瞬間、銀の剣が私の肩越しに走った。雪煙の中、二人の呼吸が一瞬だけ重なる。
「背中を預けるな」
「なら、殿下が背中を守ってください」
「……命令違反だ」
「命令完遂です」
その夜、雪は止まなかった。けれど焚き火の明かりの下、ルカ様の外套を縫い直す手が少しだけ震えているのを私は見逃さなかった。
翌朝、鉱山の町に入ると空気が鉛のように重かった。薬屋の棚には薄い瓶が所狭しと並んでいる。色も様々で見たことのない植物に目をみはるばかりだった。
「殿下の傷もこれで癒えるといいのですが……これは効きますか?」
私がそう訊くと、店主は首をすくめた。
「……効くと言われてるだけです」
私は棚から一本取り、瓶の底を光に透かす。液体が揺れる。その揺れが妙に軽い。
「なんだか水みたいですね、これは瓶に色がついているだけで無臭というか――」
「ちょ、ちょっと! 勝手に」
制止に入るセシリア嬢の背後。ルカ様が瓶を受け取り、ラベルの印章を爪でなぞる。
「“灰の薔薇”の蔓印か。……本物の帳簿はどこだ?」
「し、知らない! 俺はただ、運んでるだけで!」
そのとき、小さな少女が薬局の隅で咳き込んだ。その子の兄が小さな体を抱きしめる。私の喉の奥が熱くなった。
「殿下……この子の薬足りません」
「持てる分、分けろ」
「でも、それじゃ他の患者が——」
「俺の分を減らせばいい」
その一言に、何も言えなかった。私はトレイの上に瓶を並べ、ギブン様に視線を送る。
「正規薬を王都から直送する。代金は俺が出す」
「ギブン様……」
「言うな。これは仕事だ」
彼の横顔に、静かな炎が宿っていた。私は帳簿の数字を見直す。峠から港へ。どこかで薬がすり替えられているようだ。数字が嘘をつく。——なら、段取りで暴くしかないのだろう。
「……行きましょう。次は連結所です」
ルカ様が頷く。彼の指がふと私の手に触れた。その熱が雪よりも鋭く胸に刺さる。
「離れるな」
「離れません。推しなので」
「……は?」
「なんでもないです」
外は雪が静かに舞っていた。帳簿の隅に異様な印字があった。インクの濃淡が二重になっている。トレイの反射光を使い、私は角度を変えて覗き込んだ。
「これ、“上書き”されてますね」
「誰が?」
「手口が綺麗すぎる。会計局の仕事ではないでしょうか」
セシリア嬢が小さく呟いた。白手袋の指先で帳簿をめくる。紙の香りの中にほのかな香水の匂いが漂う。……この匂いどこかで?
「このインク、王城の記録室でしか作られないわ。——つまり中枢が関わっている」
セシリア嬢の言葉に思わず彼女の目を見つめた。それでもインクがどこで嗅いだものかはっきりした。まさに彼女の言ったとおりだ。
「羽は、ただの金儲けの密売組織じゃない……?」
「違う。資金洗浄・密輸・情報流出、全部が繋がってる」
彼女の目が鋭く光った。その手は卓上の蝋燭をトレイの縁に移し、火を弱める。ゆらめく炎に帳簿の透かしが浮かび上がった。
「……これ、王立学寮の封印です」
「学寮って、貴族の研究機関ですよね?」
「ええ。そしてそこに、会計局と羽を繋ぐ人物がいる」
彼女は紙を折り、懐にしまい込む。その仕草はただの貴族ではなく、もはや諜報員のそれだった。セシリア嬢はゆっくりとルカ様の方へ振り返った。
「殿下、私に一つ任せてくれませんか?」
「内容による」
「夜会です。それに私は招待されています。そこで仮婚約を行いましょう」
その瞬間、空気が止まった。ギブン様が目を上げる。カイ様が息を詰める。……え、婚約ってそれは、ルカ様とセシリア嬢の? 嫌だ、すごく苦しい。けど今はもうそれしか残っていないのかもしれない。
「おいおい、婚約って……まさか」
「もちろん仮というか正確には偽装です。それでも彼を炙り出すにはちょうどいい機会になるかと」
「彼?」
セシリア嬢は唇を震わせた。そして静かに答えた。
「——羽の王。おそらくアルジェント・レオンのことだと。秘密裏に情報収集を行い、ようやく手に入れました。彼は王家の“失われた分家”」
その名を聞いた瞬間、ルカ様の指がピクリと動いた。そして拳を握る。
「……レオン?」
「貴方の祖父の弟、つまり王族の亡霊。生存が確認されたのは数年前。今は“会計顧問”として裏から経済を握っている」
ギブン様が低く唸る。カイ様は無言で剣の柄を握った。
「つまり、俺たちはとんでもない奴を追ってるってことか」
「そういうことです」
ルカ様が立ち上がり、手袋を外して机を叩いた。
「なら、潰すしかない」
その声は低く氷のように静かだった。でもその奥に火があった。それは“血の責任”を背負う者の炎。私は息を吸い、燃えるような彼の横顔を見つめた。
「……殿下」
「なんだ」
「あなたが潰す前に私が暴きます。段取りで」
「お前はいつも恐れを知らない」
「知ってます。ただ、止まれないだけです」
その言葉にルカ様の目がわずかに揺れた。
「……なら、一緒に行こう」
王都中央宮殿、春の夜会。シャンデリアが光の海のように揺れ、鏡張りの天井に千の顔が映っていた。貴族も外交官もこの夜ばかりは仮面を外す。だが本当の仮面を被っている者ほど、笑顔が整っているのだ。私は会場の端、給仕を装って立っていた。白いトレイの上には水晶のグラス。でも、その下には通信符が隠してある。ギブン様から短く符が届いた。『予定通り。ルカとセシリア嬢が壇上へ』。心臓が一拍跳ねる。いよいよ作戦が始まる。壇上に立つルカ様は黒い軍装に金糸の肩章。隣に立つセシリア嬢は白薔薇のドレス。どこからどう見ても絵画のような光景だった。そしてあの夜を思い出すようで胸が苦しくなった。
「本日、我はセシリア嬢との婚約を正式に表明する」
ざわめきが波のように広がる。予想外の展開に誰もが息を飲んだ。――そう、それが狙いだ。王家直系の婚約再宣言など、政治的にも社会的にも〈羽〉の利権を刺激するに決まっている。セシリア嬢は表情ひとつ変えずに微笑んだ。……強い。さすがセシリア嬢。
けれどその瞳の奥に誰も知らない哀しみの色が一瞬だけ宿った気がした。会場の奥で、仮面の男が動いた。白銀の仮面、燕尾服、目だけが冷たい青。招待客の誰とも視線を合わせず、まっすぐセシリア嬢に向かって歩いていく。私はトレイを持ったまま歩を合わせる。その距離十歩。彼の指がポケットに触れる――小型の封筒。……あれは通信符? 誰宛の?
彼は壇上の前で足を止め、ゆっくりと仮面を外した。そこに現れたのは、整いすぎた顔。だがその笑みが氷のようだった。
「おめでとうございます、殿下。これで王権の上も安堵されるでしょう」
空気が変わった。ルカ様の瞳が鋭く細まる。
「……誰の言葉だそれは」
「“羽”より高き場所に座す者の言葉です」
その瞬間、ギブン様の声が符越しに響いた。
「トウコ、下がれ。奴は偽使者だ!」
私は即座にトレイを投げた。金属音が鳴り、男の手から封筒が落ちる。ルカ様はそれを拾い上げ、開いた。中には金色の羽根と黒い五芒星。会場が凍りつく。そして男の笑みが消えた。
「“王の上”はまだ眠らない。次は夜明け前に訪れる」
そう言い残し、彼は自らの袖に火をつけた。煙幕のように炎が広がり、姿が消える。混乱の中でもルカ様は声を張った。
「落ち着け! 避難経路は北側! ギブン、制御を!」
その声だけで場が戻る。貴族たちが一斉に動き、セシリア嬢は震える手で胸元を押さえた。
「ルカ様……あれは、まさか……」
「“羽の王”ではない。ただの影だ」
「けれど、あの印は……!」
「奴は伝令だ。だが、その主は生きている。そして王家の中に潜んでいる。」
私は息を呑んだ。確信を持って言い切る殿下の横顔が、炎よりも冷たくそして美しかった。夜会が終わる頃には、空が白み始めていた。朝霧がガラス窓を曇らせ、兵たちが焦げた跡を清掃している。私は静かにルカ様に近づいた。
「殿下……お怪我は」
「ない。心配するな」
「セシリア嬢も……?」
「無事だ。彼女は強い」
淡い光の中で、彼が小さく息を吐いた。
「夜が明けたな」
「ええ。でも、嵐の前の静けさのようです」
「そうだ。“羽”はまだ眠っていない」
その言葉が、夜の終わりを告げる鐘よりも重く響いた。王都の空が、新しい朝の光で満たされていくように。
翌朝、王都から出る貨物列車。その積荷の中に“羽”の資金源があった。セシリア嬢の従者経由の報告で、敵が「偽金証書」を移送していることが判明したのだ。
「トウコ、お前は三号車を見張れ」
「了解です」
「ギブン、四号車」
「任せろ」
列車が動き出す。車輪の音が規則的に響く。ルカ様は窓際に立ち、外を見ていた。
「……叔父上があそこまで堕ちていたとはな」
「殿下……」
「だがあれで終わりじゃない。それに昨日は姿を現さなかった。よほど警戒しているのだろう。奴は財政を握っている。つまり王国の命脈を羽が支配している」
突然、列車が揺れた。前方で爆発音が聞こえ、煙が上がる。
「敵襲です!」
私はトレイを構え、通路を走った。敵が後方車両から侵入。剣撃の音がカンカンと火花を散らしている。ルカ様が前方に突き進み、ギブン様が援護射撃。狭い車内で、金属音が散った。
「トウコ、伏せろ!」
「っ、了解!」
私はトレイでナイフを弾き返し、敵の腕を打つ。鉄の匂い。焦げた布。息を詰めながら、殿下を追う。
「荷の中に“証書”がある! 燃やされる前に奪取!」
その叫びに、全員が動いた。セシリア嬢が通信符を打ち、カイ様とアデルさんが前後を押さえる。爆煙の中でルカ様の影が見えた。火の粉の渦中で銀の刃が閃く。そして——彼の瞳が私を見た。
「こんなところで死ぬんじゃないぞ」
その言葉に息が止まった。
「ええもちろんです。——今度は私が踊らせなければなりませんから」
火花の中で刃が交錯した。
――列車襲撃の報告が学寮に届いたのはそこから二日経った頃だった。会計官たちは沈黙していたらしい。その夜、セシリア嬢は再び夜会に出席した。
「婚約を祝して、乾杯を」
「……乾杯を」
そう乾杯のグラスを重ねてきた男こそ――アルジェント・レオン。つまり羽の王だった。その声の裏で、彼女は胸元の通信符を指で押した。信号送信。王都の作戦班へ、ルカ様たちへ。彼女は笑っていた。だが、瞳の奥では炎が燃えていた。
「あなたは、王家を滅ぼしたいのですね」
「違うさ。ただ、形を変えたいだけだ」
「血ではなく、金で統べる王国を?」
「それが進化だよ。君の婚約も、その象徴になる」
彼が微笑む。その目は氷のように冷たい。
「……なら、私は裏切る準備をしておきますわ」
「何?」
「王家は滅びません。なぜなら、彼女が——“踊らせる女”が、まだ立っている」
レオンの表情が凍りつく。その直後、遠くで爆音が響く。王都の方向から、光が夜空を裂いた。
「——始まったようね」
セシリア嬢の唇が炎の色を映した。そして彼女はグラスを置くと長いドレスの裾をたくし上げて夜の闇へと走り出した。
灰峠の麓を抜けた先、トロッコ列車の積み場。夜明け前の雨が、屋根を叩いていた。霧の中で影が動く。“羽”の密輸組織が資金を積み替えている。そこにセシリア嬢が駿足の愛馬と共にさっそうと現れる。
「前方三十、敵二十。弓兵六」
「了解。……セシリア嬢、お待ちしておりました! 遮断線をお願いします」
「ええ。貴女が合図を出した瞬間に」
私はトレイを地面に伏せ、鏡のように空を映す。そこに映る敵影を見ながら息を整えた。雨音のリズムと、心臓の鼓動が重なる。
「——今!」
私はトレイを叩いた。音が跳ね、合図が走る。同時に、ルカ様が突撃線を切った。銀の刃が雨を裂き、ギブン様の銃声がその背中を守る。セシリア嬢の符術(非魔法・信号式)は鉄道網に流れ、信号機を制御。その途端、トロッコが暴走する。
「下がってください!」
私の叫びと同時に、列車が横転。瓦礫と火花が散る。その中でルカ様の背が光のように動いた。私は走る。トレイを盾にし、落下する鉄片を弾く。火花が髪に触れた瞬間、腕を掴まれた。
「無茶するな!」
「無茶じゃありません、段取りです!」
「段取りの定義を変えろ!」
叫びながら、二人で瓦礫を飛び越える。雨が血と油を流していく。目の前のコンテナが倒れ、中から金色の書簡がこぼれた。
「これ……財務局の印章」
「やっぱり、“羽”は上層にいる」
その瞬間、銃声。私の頬を掠め、ルカ様が前に出る。
「殿下!」
「いい、動くな!」
彼は敵兵の刃を受け止め、反撃の一閃で押し返した。雨と血の中、私はその背を見つめた。……やっぱり、あなたはこの世界で一番、危うくて眩しい人だ。
戦闘後、港町近くの避難所。薄暗い天幕の中にあの子供がいた。鉱山の薬局で会った、妹を助けたいと言っていた少年だ。彼の手を握る小さな指が冷たい。
「効かない……薬が」
彼の声はかすれていた。私は荷から瓶を取り出し、蓋を開けた。
「これは……正規薬です。殿下が持たせてくださった分」
スプーンで一口。少女の唇がわずかに震える。それでも少しだけ色が戻った。
「……ありがとう」
その声は風みたいに弱かったけれど確かに生きていた。ギブン様が背後で黙って立っていた。彼は少年の頭に手を置き、静かに言った。
「お前が強く願ったから、生きたんだ」
「ギブン様……お金、返します」
「いらん、そんなものは。俺はみんなが生きてくれればそれでいいんだ」
私はそれを見て、胸が締めつけられた。この世界で、こんなに優しい人がまだいる。でもそれすら利用するのが――羽だ。
「殿下、羽の薬網はまだ続いてます。偽薬のルートが切れても、資金線が残ってる」
「どこだ」
「王都の財務局、そして“学寮評議会”」
ルカ様の拳が震えた。
「……なら、次は王都に戻るまでだ」
王都に戻った翌日、宮廷前広場。民衆が集まり、久々の“王子帰還”を祝っていた。だがそれは罠だった。広場に仕込まれた爆薬。祝賀の横断幕の裏に“羽”の紋章。ギブン様の通信が走る。
「トウコ、ルカを下げろ!」
「もう間に合わない!」
私は舞台に飛び上がり、トレイを盾にした。――閃光、爆音。視界が白に染まる。ひどい耳鳴りに思わず頭を押さえた。次の瞬間、腕の中確かに感触がある。靄が溶けていくと、そこに彼がいた。
「殿下!」
「大丈夫だ。……お前が、庇うな」
「庇うのは当然です!」
「主従の立場が逆だ」
「そんなわけないじゃないですか! あなたが傷つく方が嫌です。これはメイドとしてもそうですけど、私の人間としての気持ちです」
その瞬間、彼の手が私の頬を掴んだ。煙の中、視線がぶつかる。
「お前……そういうことを簡単に言うな」
「え?」
「意味、分かってるだろ」
何も言えなかった。ただ鼓動の音だけがうるさかった。爆発事件の裏、財務局が混乱に陥った。セシリア嬢が持ち帰った封書を解析すると、そこには“二重帳簿”の痕跡。
「香水瓶に印字された極細の文字……これが本物」
彼女が光を当てる。香りの層の下に、数字が浮かんだ。
「この筆圧……書いたのは、アルジェント・レオン本人」
「つまり、羽の王は財務局長と繋がってる」
「ええ。彼は国家の財布を手にしてるの」
セシリア嬢の手が震える。でも瞳は燃えていた。
「私はどうなってもいいから。私はもう覚悟しているの。だから、トウコあなたはルカ様を守ってね」
「セシリア嬢にそんな……何をしようとしているのですか?」
「危険じゃない夜会なんて退屈よ」
彼女の笑みはどこまでも強かった。
王都の外れの鉄橋。夜の霧が川面を覆い、灯が滲む。私たちはそこに立っていた。向こう側にはアルジェント・レオン。白い外套を翻し、ゆっくりと笑う。
「ようやく会えたな、ルカ」
「叔父上……いや、“羽の王”と呼ぶべきか」
「血など意味を持たん。私は数字で世界を治める」
「そのために、どれだけの人を殺した」
「秩序の犠牲だ。愛しい妹を救うための、な」
「妹?」
ルカ様の表情が凍る。アルジェントの視線がゆっくりと私を見た。
「お前のその“器”は、妹の研究をもとに造られた。……彼女は処刑されたが、私は彼女の理論を継いで“魂を留める器”を作った」
「やめろ」
「だが、困ったことに実験は失敗してしまったのだ。今のお前は私の欲していたものを何も持っていない。なぜなら別人だから」
「トウコはトウコだ」
ルカ様の声が低く響く。それでも私は理解してしまった。――“羽”が生まれた理由。それは王家が切り捨てた研究者の遺志と、愛しい者を失った男の復讐。……私が転生してきたのはこの人の変な実験のせいだったのね。
「お前たちは理想に縋って死ぬ。私は現実にしがみついて生きる」
アルジェントが銃を構える。その瞬間、ルカ様が前へ出た。
「下がれ、トウコ!」
「いやです!」
私はトレイで銃口を弾き、同時に叫んだ。
「ギブン様、今です!」
橋の両端で爆薬が起動。光と風が爆ぜる。橋が崩れ、炎が夜を裂いた。最後に見たのは、炎の向こうで微笑む羽の王と私の手を掴むルカ様の瞳だった。燃え盛る港の倉庫。風が炎を煽り、赤く染まった空が波に映る。ルカ様は剣を抜き、ギブン様が援護射撃を放つ。私はその時、セシリア嬢の言葉を思い出していた。彼女が何をしようとしているかはまだ分からない。それでも私は彼女を追い掛けなければならない。私は走り出した。――セシリア嬢を止めるために。雪の上の足跡をたどり着いた先、ある建物に行き着いた。その鉄扉を蹴破ると彼女は中にいた。焦げたドレスの裾を掴み、書類を火にくべようとしている。
「セシリア嬢!」
「来ないで!」
振り向いた瞳は、決意で光っていた。
「これは私の罪よ。知らない内に彼の手に加担したことも、見て見ぬふりをしたことも。私が燃やさなければ誰も前に進めない」
「でも、それで貴女まで消える必要はありません!」
「いいえ。私は“証人”として生きる。でも、“告発者”にはあなたがなるべきよ」
燃える紙片を見つめながら、彼女はまっすぐ言った。
「ルカ殿下は、あなたを選ぶ。だから私はこの国の未来を選ぶ」
火花が弾けた。その瞬間、屋根が崩れ二人で外へ飛び出した。