最難関攻略キャラ、愛しのルカ様は今宵私の手のひらで踊る
《セシリア嬢の春》
 今年も春祭りの季節が近づいているらしい。広場の屋根には花の飾り、通りには笑い声。あれほど重たかった冬の空気が、今では微かにしか感じられない。私はバルコニーに立ち、人々の波を見下ろした。手に持つのは一通の書簡――婚約宣言の破棄届。署名は私の筆跡で、封蝋には王家の紋章が押されている。……本当は、もっと早く書けたはずだった。けれど心のどこかで、最後の“未練”を処理しきれなかった。視線を下ろすと、祭りの中央広場に二つの影が見えた。銀髪の殿下と、明るいエプロンドレスの少女。トウコとルカ様。二人は何も言わず、ただ視線を交わしていた。人々の喧騒が遠のき、その一瞬だけ、時間が止まったように感じた。……ああ。もう、届かない。
 心が静かに、しかしはっきりと告げた。それでも涙は出なかった。彼女が殿下に触れるときの指先、彼が彼女を呼ぶ声――そのどちらにも憎しみも奪い合いもなかった。ただ信頼があった。それを見て、ようやく私は気づいた。愛とは、所有することではなく、誰かを“信じて託す”ことだと。
 その夜、バルコニーに冷たい風が流れ込む。書簡を手に私はインク瓶の前に立った。震える指で、最後の一文を書き加える。
「私は、ルカ様との婚約を解消し、新たに自身の道を歩むことを誓います。」
 その瞬間、扉が叩かれた。入ってきたのは――ギブン。いつもより乱れた髪で、片手には酒瓶。
「……来ると思ってました」
「お前、泣いてんのかと思って」
「泣いてません」
「だよな。あんた、そういう女じゃねぇ」
 彼は机の上に酒瓶を置くと、勝手にグラスを二つ並べた。
「これ、“羽”の倉庫で拾ったやつ。火は通ってる。毒じゃねぇ」
「それを私に?」
「お祝いだ。失恋記念」
 彼の言葉に、思わず笑ってしまった。
「そんな祝いの風習、ありましたか?」
「ねぇよ。でも、あんたにゃ必要だ」
 注がれた琥珀色の液体。口に含むとその液体は少しだけ熱くて、優しさがしみ込んでいくようだった。
「……苦い」
「だろ? けど、最後に甘みが残る。俺たちの人生もきっとそんな感じだ」
 ギブンはグラスを置き、少しだけ真剣な声で言った。
「俺は自分の信じたものを守る。けどそれだけじゃ足りねぇ。セシリア嬢、あんたにも“戦場”がある。それを忘れんな」
 私は目を伏せ、机の上の破棄届を見つめた。
「……ええ。忘れません。私は私の場所で戦いますから」
「それでいい」
 沈黙のあと、ギブンが窓の外を指した。
「見ろよ。春が来た」
 王都の街路樹が淡く光っていた。芽吹き始めた葉が月の光を受けて輝く。新しい季節が確かに始まっている。
 翌朝、私は封蝋を押した書簡を携え、王城の文官局へ向かった。署名を提出するその瞬間、胸の中で一つの冬が溶けた気がした。帰り道、丘の上で見覚えのある背中を見つけた。カイとアデルが市場の整備を手伝っている。その向こうで、トウコが笑っていた。ルカ様が花を手に、彼女の髪に差す。その姿を見て不思議と嬉しくなった。……ああ、本当に良かった。彼女が“あの人”を笑わせている。私はずっと、ずっとずっと。あの人の笑顔を求めていたんだ。笑わない王子が笑ってくれる、それが私の望みだったんだ。
 午後、私は王立学院へ向かった。教室の前に立つと、子どもたちの声が聞こえた。孤児たちに読み書きを教えるために作られた新しい学科。黒板にはまだ拙い字でこう書かれていた。『自由と責任を学ぶこと』私は微笑み、教壇に立った。
「さあ、今日は“選ぶ”ということを話しましょう」
 子どもたちが目を輝かせてこちらを見る。その光景に胸が熱くなる。
 夕暮れ、授業が終わり、一人で帰り道を歩く。空は金色で風は柔らかかった。その風の中で、私は小さく口ずさんだ。
「誰かを想うことは、自分を赦すことと同じなのね」
 あの日の涙がようやく意味を持つ。トウコにも、ルカ様にも春が来た。そして――。丘の上に立つと王都の灯が一斉にともった。その光を見下ろしながら、私は心の中でそっと祈った。
「どうか、この春が長く続きますように」
 背後から聞こえる足音。振り向けばギブンが手を振っていた。
「おい、もう日が暮れるぞ」
「まだもう少しだけ見ていたくて」
「そうか」
 彼が隣に立つ。風が私たちの間を抜ける。街の灯がまるで星のように瞬いていた。
「ねぇ」
「ん、なんだ?」
「春ってやっぱり優しいですね」
「優しいだけじゃねぇ。次の季節を迎えるために全部を融かす時期だ。出会いも別れも全部を連れてくる」
「……だから、泣いてもいいんですね」
「泣くか?」
「泣きません」
 笑い声が風に混ざって溶けていった。夜空を仰ぐ。星の欠片がゆっくりと空の端から端へと流れた。その光を追いながら静かに微笑んだ。
「――さようなら、そしてありがとう。私の冬」
 新しい季節の始まりを告げる風が吹く。桜の花びらが夜空を舞った。それを見ながら私は小さく呟いた。
「もう大丈夫よ、トウコ。私にも春が来たから」
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