最難関攻略キャラ、愛しのルカ様は今宵私の手のひらで踊る
夜の港は、昼の喧噪を忘れたみたいに静かだった。見張りの灯だけが一定の間隔で並び、海は墨のように沈んでいる。木箱、巻き上げ機、帆布、濡れた縄。全てが眠っているふりをして耳だけ起きている。
「染め窯は港の腹だ。色を落とせば罪も落ちる。……よく出来た偽装だな」
ギブン様が囁く。カイ様は腕を回し、肩を鳴らした。
「狼でも夜は吠えねえが、噛む準備はしてる」
ルカ様はただ前を見ていた。風に髪が流れても、瞬き一つ減らない静寂。誰より先に動きそうなのに、誰より止まっている。……この人が動く時は、終わりを告げる時だ。
私は呼吸を整え、指先で自分に合図を打った。ここでは“私が先に観る”。
染め窯の建物は、港の倉からさらに奥。壁は煤で黒く、窓は布で塞がれ、外に匂いが漏れないよう重く締められていた。どうやら扉の前に、見張りは——いない。
「……いないのか、不自然ですね」
「いや」
ギブン様が即座に否定する。
「染め窯は目で守らない。どちらかと言えば鼻と音で守る。匂いが漏れたら失敗、音が出たら異常。それだけで十分なはずだ」
つまり、開けた瞬間に試される。
「行くぞ」
扉をギブン様が押し開け、私たちは煙のない闇の腹へ足を踏み入れた。中は、静かに蒸されていた。熱ではなく、意図的に温度が均されている空気。匂いは——驚くほど薄い。染め場特有の薬液臭がしない。……匂いを殺してる。色は落としていないということ? じゃあここで何をしているの?
目を慣らしながら奥へと進むと巨大な窯が三つ。その周囲に木箱が置かれている。貼り付けられた札には「寄付衣料・洗浄前」とある。蓋の隙間から見えたのは——。
「……白い」
私は思わず声を漏らした。白、それは染める前の布。あるいは染め直された、線状された布。ギブン様がすぐ理解する。
「色を消した証拠か」
カイ様が唸る。
「まじかよ。色を全部抜けば、別物として流せるってか」
私は指を滑らせて布の縁を探った。縫い目、糸跡、布の歪み。……あった。
「ここ、一度解いて縫い直してる。つまりこれは孤児院から出た布を“素体”に戻して再流通してるということです」
ルカ様が低く呟いた。
「……子どもの手の跡を世界から消すためにか」
その声は炎ではない。もっと低い、氷の底で煮立つもの。
「待て。誰かいる」
カイ様が手を上げた。耳を澄ますと、確かに小さな布擦れが聞こえる。誰かが奥で作業しているらしい。私は息を殺し、先へ出る。男が一人、窯の蓋に体を寄せて布の判別をしていた。指先の動きが妙に滑らか。作業者の手ではない。鑑定の手だ。……“選別の上位”。刺繍の指示を下す側ね。
私は足音を立てずに一歩寄る。その距離残り三歩、その時男が唐突に口を開いた。
「——夜に来るのは、汚れた手か」
こちらを見ないまま、寸分の迷いもなく言った。声が静かすぎて、逆に心臓に触れる。
「あるいは、汚れを見つけに来た手か」
ゆっくり顔がこちらを向く。目は笑っているのに、瞳孔は笑っていない。
「どちらにしても、今日ここで終わる」
男の手が窯の鎖を引いた。そこで私は悟った。……この窯は布を殺すんじゃない。人間を落とす熱だ!
叫ぶより先に私は跳んだ。トレイを壁に叩きつけ、反射光を一瞬だけ走らせる。それが合図になり——。
「伏せろ!」
最初に飛び込んできたのは、あの銀髪ではなかった。カイ様が私を弾き飛ばし、同時に鎖を蹴り上げた。鉄が悲鳴を上げ、熱気が牙をむく——熱が噛みつく寸前、彼は鎖を蹴り上げて軌道を逸らした。窯の蓋は半分だけ落ち、噴き上がった熱気が床を走る。遅れて木箱が焦げ、空気がうねった。
「立てるか!」
「……はい!」
私はカイ様の腕から離れつつ、体勢だけ立て直した。男は逃げず構えもしないまま、淡々とこちらを観察している。
「やはり。壊す側ではなく、見る側だな」
ギブン様が分析するように呟く。男の唇が静かに笑う。
「見る者が一番遠くまで届く。針よりも、剣よりも」
次の瞬間、男は窯の反対側へ滑るように退いた。逃げではない、おそらくこういう時の相場は誘導だ。……奥になにかあるはず。
私はあとを追わず、逆にその場で膝をついて床を見る。熱気で揺れる床板。その下に小さな鉄箱の影。
「隊長、床下に——」
言い終える前にルカ様が踏板を割った。鉄箱が露わになる。鍵はない。溶かして密閉されている。でも、封をした人間は見落としていた。熱で閉じたなら、冷えで割れることを。
「冷水を」
私はすぐにお願いした。ギブン様が無言で樽を倒す。鉄箱が悲鳴のように鳴って、継ぎ目がひび割れた。カイ様が剣の柄で割る。蓋が跳ねると——その身は不思議なことに縫にではなかった。
「キャァァァ‼ え、これ……骨?」
子どもの骨でも大人の骨でもない。指先だけの白い小骨。そしてその骨には金糸が巻かれ、針で留められていた。思考より先に、脳が拒絶した。呼吸が一瞬止まる。ルカ様の声が静かに落ちる。
「素体——布を殺す前に手を殺す組織か。」
男が薄暗闇の奥から答えた。それは罪悪感ではなく、誇りにも似た声音で。
「優れた指は、布以外に触れると鈍る。粗悪な意思などに汚染される前に——保存する。それがこの世界の、最高の救いだ」
……救い? これが救いな訳がないでしょ?
炎より先に怒りが目の奥を焼いた。私は立ち上がった。声が自分のものとは思えないほど低く落ちた。
「——救いじゃない。ただの神の名を借りた残虐な切断だ。」
男の目が一瞬だけ細くなる。その瞬間、合図のないまま戦が始まった。カイ様が横から回り、男の逃げ道を塞ぐ。ギブン様が扉側を封鎖する。私が前に出る。ルカ様だけが、まだ動いていない。男は一歩下がり、壁の隙間へ手を伸ばす。その隙間には——細い管。……まさかっ⁉
「熱気、再ガス化!」
叫ぶのと同時に、私はトレイを構えた。反射で進路を切る。だが、男は逃げではなく火を選んだ。
「ここで焼けば、全て無に還る」
導火の音。床下の熱が爆ぜた。赤でも橙でもない、無色の熱風——肺の奥を直接焼く種類の火。
「下がれ!」
カイ様が即座に私の腕を掴み、横へはじき出す。同時にギブン様が扉方向へ回り、熱の流出路を塞ぐように壁際に身を張った。……ルカ様はまだ動かないの⁉
爆炎はまだ始動だ。火は狂う前に必ず一度だけ息を吸う。それを知っている者しか踏み出せない。男の足元で導火の光が走る。硬い声が闇の奥に落ちた。
「燃えれば、証はすべて消える」
私は咄嗟に言い返した。
「消えるのは証拠じゃない。言い訳の方だ」
その瞬間、銀が動いた。炎の中心を裂くようにルカ様の影が通った。導火線を踏み砕くのではなく——火の“吸い口”そのものを蹴り潰した。爆炎が咆哮し、行き場を失って天井へ逸れる。梁が悲鳴を上げて軋む。
「……終わらせるのは俺だ」
低い声は氷の底から響いていた。男は愉悦を貼り付けたまま後退する。まだ逃げる道を信じている目。だが、逃げ道は既に——。
「後ろは俺が塞いだ」
カイ様の声が男の背中に降る。
「入口は俺が封じた」
ギブン様の声が扉を支配する。そして正面には、灰を踏んで立つ銀の影。
「お前の救いはここで終わる」
男はなお笑った。焼け落ちる天井の下で、ただ静かに。
「終わるのは私ではない。この国のすべてだ。」
その言葉と同時、男は壁の石を押し込んだ。……ここにも隠し扉⁉
外気が吸い込みの音を立てる。誰かが、そこへ走っている足音。これは逃走ではない。引き継ぎだ。私は即座に叫んだ。
「一人じゃない! 外に次の手がいます!」
ルカ様が振り返らずに言い放つ。
「追え」
たった二音で、私の脚が勝手に走った。熱も灰も痛みも置いていく。まだ終わらせない。染め窯の裏口の石段を、私は夜へ飛び出す。海の匂いと、足音と、風。その先にまだ糸を引く誰かがいる。
夜の港は眠ってなどいなかった。海鳴りの下で無数の足跡が息を潜めている。私は石段を駆け下り、走り去る影を視界に捕まえた。黒衣。背は低い。追われ慣れた足運び——「末端の運び屋」じゃない。指示を“渡す側”の速度だ。
「止まりなさいっ!」
叫びは自分を追い立てるためのもの。止まる気なら最初から走らない。返事は予想通り——刃。影が懐から何かを投げた。私はトレイを立て、弧を描く角度で受け、弾き、落ちた閃きが石畳で火花を散らす。……あれ、刃じゃない。封蝋ナイフだ。
書状の封を切るための薄刃。つまり無言の伝達役だということ。私は走りながら叫ぶ。
「ギブン様! アイツ、書状持ちです!」
背後から短い返答が届く。
「生きて捕らえる!」
それは殺すな、奪えという意味だ。私は距離を詰めながら息を整える。相手は壁際に身を寄せ、袋を投げる構えに入った。きっとその袋に命令があるはず。影が袋を振りかぶった——その瞬間。
「惜しいな」
風から声が降りた。ルカ様が先にそこにいた。……いつ走ったの? いつ抜けたの? リアルに天使だったっけ。
影が袋ごと腕を引くより速く、ルカ様の指が手首をねじる。悲鳴は上がらない。息だけが潰れる音。
「どこへ渡すつもりだった」
低い問い。影は答えない——答える前に舌を噛むつもりの目。私は一歩踏み込み、影の顎を打ち上げた。舌が噛み合わさる直前にズラす角度。それは——生かすための暴力。
「死ぬ権利はもう無い。言いなさい」
影は唾を吐くように笑った。
「遅い。もう渡した。上は次へ進んだ」
ルカ様の瞳がわずかに細くなる。私は即座に問い返す。
「次って何。補給線? 選別? それとも」
影は躊躇いなく答えた。
「祈祷だ」
あまりに静かな声だった。私の背骨が一段冷える。祈祷——針と糸と火の次にある儀式。これはただの裏稼業ではなどではない。思想と信仰に乗せた段階に入ったということだ。
「どこでやる」
ルカ様の問いに、影は笑うだけで答えない。その笑いが終わった人間の笑いに聞こえた瞬間——。
「……待って」
私の目が氷みたいに冷たく澄んだ。
「あなた、“渡した”って言った。祈祷の命令じゃない。“祈祷のための材料”を。」
影の笑みが止まる。凍る一瞬、確信に変わる。……命令書じゃない——誰かそのものを渡したんだ。
私は言い切った。
「——人を渡したのね」
影の瞳孔が跳ねた。迷いのない肯定。ルカ様が息を沈めて告げる。
「誰だ。誰を祈祷に使う」
影は嗤う。
「知ってるはずだろう。理由がある者だ」
理由——死んでも代わる人間はいない者。祈祷の価値が跳ね上がる対象。ギブン様が追いつき、影の襟を掴んで壁に叩きつけた。
「その者の名前を言え」
影の唇がゆっくり動く。
「——王族には必ず喪失の儀が必要だ」
その言葉を聞いた瞬間、ルカ様の瞳の奥で何かが消えた。怒りではなく、嘆きでもない。氷点下の決断だった。
「対象は誰だ」
影は答えた。祈祷に使われる名——私はその音を聞いた瞬間、血の気が引いた。……その人を渡したの? 本当に?
喉が焼けるように痛む。
「……嘘でしょ」
影は満足げに目を細めた。
「シャロット姫だ。——間もなく、織り合わせに入る」
シャロット姫、彼女はルカ様の妹だ。ゲームの公式設定に書かれていたが、ナリコイには実際に出てこない。だからこそこれはただの乙女ゲームではない。祈祷は儀式じゃない。王族の血を使って国の理を書き換える行為だ。ここから本当の地獄が始まる。
「シャロット……だと?」
ルカ様が拳を震わせながらつぶやく。その瞳には明らかに冷たい色が宿っていた。港の夜は海よりも冷たくなった。沈黙は一拍だけ。
「場所を吐け。今すぐだ」
影は笑いながら首を振る。余裕ではない覚悟の笑いだ。
「もう移送は済んだ。あとは時刻を待つだけだ」
「時刻……?」
私が問うと、影は答えではなく描写で示した。
「——鐘が三つ鳴る夜。布と骨と血が一つになる」
鐘が三つ。この国でその条件に合う場所は限られている。祈祷に耐えるだけの石の建造物、鐘を鳴らす権限、外界を閉ざせる距離。……修道院ではないし、城の内部でもない。
その時、低く静かに名が落ちた。
「——北の“廃聖堂”だ」
言ったのはギブン様だった。迷いが一粒もない声音。影の目が見開かれた。――図星だった。
「……ずっと前に閉ざされたはずの場所だぞ。鍵は教会の上層しか——」
「上層が噛んでいるんだろうな」
ルカ様の言葉に影は嗤った。
「善なる器ほど使いやすい。それを今さら理解したか、遅いな」
その嗤いを、カイ様の拳が黙らせた。
「鉄板でも噛んで寝てろ」
影は崩れ落ちた。息はある、生きてはいる——尋問可能だ。私は深く息を吐き、震えを押し殺した。
「……つまり、祈祷は今夜」
ギブン様が頷く。
「猶予は数刻しかないだろう」
ルカ様がこちらを振り向く。銀の目が、まっすぐこちらへ突き刺さった。
「行くぞ。——全員来てほしい。わが妹を助けてくれ」
「それはもちろんだが、王都の許可は?」
「要らない」
その即答に背骨が震えた。この男が“国家を置いて人命を優先する”と明言した瞬間だ。それもそのはず、彼の妹なのだから。逃げ道はない。止まる地点もない。今からは奪還戦——一歩でも遅れれば、シャロット姫は儀式の素材になる。私は頷いた。
「……行きます。最後まで」
カイ様が笑う。
「言うと思った」
ギブン様が短く眼を細める。
「二度と単独先行はするな」
ルカ様はただ一言だけ置いた。
「——死ぬな」
命令でも懇願でもない。それは前提条件として言われた。その言葉を胸に噛み締めたまま、私は馬に跨がるため踵を返した。その直後だった。石畳の上に紙が一枚、風で滑った。影が落とした封筒だ。拾い上げると、封蝋に見覚えのある印があった。それは蔓薔薇ではない別の印。五芒星の中に一枚の羽。これは連盟ではない。敵はそう単純じゃないということだ。薔薇の糸の後ろに羽根の印が存在する。私は封筒を握りしめ、顔を上げた。
「さらにもう一ついます。祈祷を監督する上位組織です」
ルカ様の目が静かに細まる。
「名は?」
私は封蝋を見つめたまま言った。
「まだ分からない。でも——薔薇の連中より上であることは確かです。」
馬が引かれ、夜風が髪をかすめた。遠くで波が砕ける。次は、中枢に触れる戦。私は鞍に手を掛けた。
「行きましょう。祈祷も、糸の上も全部を切る」
月は低く、地面に引きずるように光を落としていた。馬の蹄が夜の静寂を切り裂くと、私の鼓動もそれに呼応する。誰かのために、誰かを奪い返すために、私たちはこの黒い道を選んだ。隊列は小さい。だが、一人ひとりが「ある種の終わり」を背負っているという意味では、これ以上に大きな軍勢はいらなかった。先頭にルカ様、横にギブン様、その両サイドにカイ様と私。後方には数名の蒼狼。馬は静かに息を吐き、夜を割って進む。ルカ様の鞍はいつもより硬く見えた。彼は言葉を発しない。言葉より先に、掌の力で時間を計っているような男だ。ギブン様は地図を再確認し、半透明の灯りで経路を確かめている。カイ様は妙に饒舌で、緊張の均衡を崩さないために冗談を投げる。……できるだけ冷静を装わなければ。
冷静といえば、私は昼間の自分を思い出す。針の跡、子どもの赤い指先、焦げた布片。あの光景が私の胸で静かに燃えている。今夜はそれを消す夜だ。消させないために、一歩も引かない。
「廃聖堂は、廃れた鐘楼の裏手にある。鐘が三つ鳴る条件を作るのは上層の連中だ。奴らの通信は“羽印”の封筒で回っている」
ギブン様が小声で言った。地図の一角を指で押す。その指先は震えていない。
「封筒の出所はまだ突き止められてない。だが時間を稼ぐ余裕はない」
ルカ様が短く言う。彼の声は夜に沈む石のように重い。カイ様は前方の茂みを指差して、わざと明るく言った。
「古い教会跡って、想像よりも足場が悪いぞ。跳んだり滑ったりしないでね王都女子」
私はつい肩をすくめて答える。
「滑ったら助けに来てくださいね」
その冗談に、カイ様は齧り付くような笑いを返した。ルカ様がちらりとこちらを見る。その視線が一瞬だけ長くて、胸がぎゅっとする。……あぶない。今は任務だ。心は後ろにしまっておかなければ。
今日の夜は特段長く感じる。廃聖堂の外縁に着いたのは夜の三分の一が過ぎた頃だ。石造りの建物は半分崩れていて、鐘楼は梢の影と同化している。月明かりが苔を浮かび上がらせ、薄い霧が地面に這っている。聖堂の周りには古い墓石が散り、いくつかは倒れて根が剥き出しだ。
「散開する。声は最小、光は遮断。数人は屋上ルートで側面封鎖。カイ、俺と廊下を詰める。ギブンは中庭の監視、トウコは——」
ルカが私を見た。二人だけの時間。彼の目は昼間に私が断った糸目のことを思い返しているようだった。
「お前は表の門前で囮と突入の二役だ。子どもを見つけたら、まず彼らの安全を確保しろ。自分を優先するな」
私は息を飲んだ。命令でもあり、信頼の言葉でもある。
「わかってます」
そして彼は、いつものように余計な言葉を付けない。それが彼の優しさだと、最近よく分かる。誰かを守る人は言葉を削ぎ落とす。胸が熱くなるのを押し殺して、私は布を握り直した。
――今回の作戦はシンプルだが危険だ。表の門を我々が塞ぎ、内部から小さな混乱を起こして守りを誘い出す。側面から狼集団が忍び込み、カイ様とルカ様が中心突破。ギブン様は中庭の監視で連絡を一手に握る。私はその隙に孤立している可能性のある囚われの者を探す。時間は鐘が三つ鳴るまで——正確には、鐘が一つ鳴ったら作戦発動、三つ目で最終儀式が始まる。猶予は短い。
「準備はいいか?」
ルカ様が小声で言う。合図は彼が手綱を軽く握ること。私は頷いた。息を吸い込み、体の中で何かを締める。聖堂の石門は乾いた木製で、古びた鉄の錠が付いている。私たちは闇に紛れて進み、ルカが瞬間的に錠を破るや否や、鐘楼の向こうから低い声が二つ。見張りの交換時間だ。薄いランタンが一つ、屋根の影で揺れる。計画通りにカイ様が先に火を使わずに木箱を横倒し、煙の匂いで足止めを作る。中庭の門を塞ぐのはギブン様の役割だ。私は表の門前で荷車を持って立ちすくむ“雑用の女”のふりをした。人は見過ごす。必要なのは、「そこにいること」を許される立場だ。……これが見逃してくれ、ではなく見逃される術!
瞬間、屋根の影で足音が増える。側面に回った狼集団の影が窓から滑り降りる。彼らは一瞬こちらを見て小さく頷き、私はそれを合図に動く。門が開き、内側から二人の修道者風の男が出てきた。彼らの衣は古いが整っている。表情は硬い。私の胸が沈む。シャロット姫がここにいる。直感が石の冷たさのように確かにそう告げていた。
「寄付の確認で夜に来た者がいる、という報せだった」
修道者の一人が言う。声は抑えられている。だが目の隅が笑っていない。私はゆっくりと手を伸ばし、荷札の裏に事前に忍ばせた“偽の寄付名簿”を差し出す。二人はそれを受け取り、目を通す。そこに書かれているのは偽の名と偽の金額、そして小さな羽印が添えられていた。修道者の表情が変わる。一瞬、彼らは互いに目線を交換する。隠された意味が通じ合ったのだ。油断は禁物だ。だがその瞬間、遠くで鐘が一度低く鳴った――それは作戦開始の合図。空気が刃になった。
「今だ!」
カイ様が飛びかかる。木箱の隙間から、煙ではなく人が溢れだす。私は荷車を押し、修道者の一人を突き飛ばして動線を作る。足元で小さな声がする。子どもの泣き声だろうか。それを聞いた瞬間、ハッとした。……誰かがここに囚われている!
戦が始まるとすべてが加速する。刃の閃き、掠める衣擦れ、短い叫び。カイ様は痛快に動き、ルカ様は静かに、だが確実に敵を削ぐ。ギブン様は冷静に連絡を捌き、狼集団は屋上から外部の守備を封じている。私は小さな扉を見つけた。薄い格子窓の向こうに、白い布――誰かの寝布。微かに指先が震える。しかし鍵穴に手を伸ばす指はいつもより確かだった。その時だった。背後の影が鋭く伸び、温度とともに冷たい声が耳に届く。
「降りろ、そこの雑用」
振り向くと、黒衣の影が一人立っていた。羽印の封蝋を胸に張り、眼光が刺す。彼の存在だけで夜の空気が濁る。私の膝が一瞬で冷たくなる。……この人が――運び屋の上!
彼の手には小さな箱。拳の中で何かが光る。祈祷のための──小さな護符のようなものかもしれない。あるいは、シャロット姫への最後の「鍵」かもしれない。彼は私を見下ろして笑った。
「お前が、王都の雑用者か。案外可愛いものだな。だが、可愛いだけじゃ済まない」
その笑いに、ルカ様が間合いを詰める。銀の影が夜を割る。
「下がれ。ここは一歩も通さない」
男は舌打ちし、周囲の者を合図する。だがその合図の前に、私は鍵穴に手を突っ込んで鍵を掴み取った。手が触れた感触は冷たくて、生温かい。私は身体を捻り、箱を奪う。小さな箱の中には薄い布と、王家の紋らしき小片が見えた。……これはルカ様と同じ紅茶の匂いだ。ということはシャロット姫の匂い⁉
匂いが漏れた瞬間、すべてが終わったように鮮烈な現実が襲ってきた。外では二度目の鐘の準備の音が、遠くで震え始めていた。扉の前で私は鍵を握りしめたまま息を止めた。箱を奪った瞬間、黒衣は静かに後ずさりし、その背後で別の足音が増える。まだ祈祷は始まっていない——だが、始める準備に入った音だった。背後から風を裂く気配。振り返るより先にルカ様の声が落ちた。
「離れろ」
黒衣の男は余裕の笑みのまま応じた。
「離れる理由がないだろう。そこに素材がいる限り」
素材。その言葉だけで、喉の奥が焼けた。
「素材じゃない。人間です」
私の声が低く落ちた瞬間、奥の崩れた回廊から人影が動いた。灯を持って現れたのは、布衣の修道者三名。その中央、紗布をかぶされた人物が引かれている。白い布。細い首。歩幅の小ささ。……見たことはないけど、シャロット姫だわ。確実に。
胸の奥が跳ねた。まだ息がある。その布の揺れで分かる。
「鐘はまだ鳴っていない。今なら戻れるはずだ」
ギブン様が静かに言った。しかし黒衣は微笑みのまま首を振った。
「違う。鐘が鳴るから始まるのではない。準備が整ったから鐘を鳴らすのだ」
一音の後、奥で鉄の棒が持ち上がる気配。誰かが鐘楼に手を掛けた。……鳴らされてしまうの? 作戦開始前だというのに!
「カイ様!」
呼ぶより早く、カイ様の体が走っていた。黒衣が懐から刃を抜く——が、カイ様の膝が先に鳩尾を撃ち抜いた。吐息が爆ぜ、黒衣の体が折れる。
「鳴らさせるかよ、バカが」
倒れ込む身体を飛び越え、カイ様は鐘楼へ駆けた。同時に狼集団が上層窓から索を垂らし、鐘員を側面から制圧にかかる。私は今しかないと思い、扉の鍵を回した。錆びた音が一つ鳴り、扉が開く。——その瞬間、扉の内側で薄闇に座らされたシャロット姫の瞳が、こちらを見た。意識はあり、泣いてもいない。けれど全身が小刻みに震えていた。
「助けに来ました。すぐに外へ——」
伸ばした手を、別の手が塞いだ。奥から歩み出た影。その影は、僧衣でも黒衣でもなぃ。それは金糸会の正式礼装。私は息を呑んだ。……ここに“正面”がいる。
その礼装の人物は怒りも焦りも無く言った。
「勘違いをしているな。これは祝祷だ。決して罪ではない」
ルカ様の声が背後から鋼のように響いた。
「祝祷に人の血は要らない。わが妹を返してもらおう」
「残念ながら必要だ。王家が生きる限り、この国には祈りの代償が必要なのだ」
その男は王妹殿下の肩に手を置いた。指が震えていない。狂ってなどいない。正気で、これを正しいと思っている手だった。私は一歩踏み出した。
「——正しいを名乗るなら、あなたが代わりに座りなさい」
その一言に、礼装の男は初めて表情を歪めた。その表情は醜く、人間の顔らしかった。その歪みの只中で、鐘が一度だけ打ち鳴らされた。胸骨の裏を叩くような音。祈祷が始まる前兆。時間が——なくなった。鐘の一打が空気を割った瞬間、場の温度が下がった。祈祷は始まったのではない。今から逆算が始まったという合図だ。礼装の男が王妹殿下の肩を掴んだまま告げる。
「——次の鐘で捧げが確定する。止めるなら一打目の間にやれ」
挑発でも脅しでもない。本気で儀式の段取り”して言っている声だった。私の胸の奥が切れたように痛んだ。
「あなたたちが決める段取りに、人の命を組み込む権利はない」
礼装の男は冷ややかに笑った。
「人の命で国が保たれるなら、それは契約だ。祈祷は支払いと同義である。支払いを拒む国は必ず滅びるだろう」
その論理を正しいと言える顔で言うからこそ、私の中の何かが切れた。
「じゃああなたが払って死になさいよ、犠牲はそれで十分じゃない」
男の目が見開かれた。狂っていない人間だからこそ、その言葉は刺さる。背後でギブン様が即座に指示を飛ばす。
「時間稼ぎは終わりだ。奪え――もちろんシャロット姫から先にだ!」
同時にカイ様が左手から飛び込み、礼装男と王妹殿下の腕の間に身体を割り込ませた。男の手が外れる——だが完全ではない。ルカ様は動かない。なぜなら、まだ終局の合図が出ていないからだ。ルカ様は“決着の一手”だけを担う。その前段は私たちが切り開く。私は床に倒れていた黒衣の帯を掴み、シャロット姫の腰へ回して引いた。抵抗は弱い。彼女は意識があるのに抵抗しない。まるで諦観が身体に沈んでいるように。私は耳元で囁いた。
「生贄じゃありません。救出対象です。ルカ様と一緒に帰りましょう」
「……お兄様」
その一言で彼女の睫毛が震えた。呼吸が戻った——生きる意思が戻った。その瞬間だった。
「鐘を鳴らせえええ!」
正面奥で別の修道者が叫び、走った。鐘楼側——狼集団が索を引いていたが、距離が足りない。鐘守の腕が鉄槌を振りかぶる。……マズイ! 鳴らされる、二打目が!
私の足が勝手に走っていた。祈祷を止めるには、鐘を止めるしかない。
「間に合えぇぇぇ!」
走りながら私は壁の燭台をもぎ取り、投げる軌道を天井すれすれに描く。火のついた燭台は鐘楼の柱に突き刺さり、その火が麻縄へ燃え移る。鈍い悲鳴が響き、鐘守の腕が炎にひるむ。——二打目は、鳴らなかった。それでも祈祷者は止まらない。礼装の男が歯を噛んで命じる。
「鐘が駄目なら、血を先に割れ!」
その指示で、奥から新たな刃の影が四つ走る。ここからが本戦——ルカ様の妹であるシャロット姫を守りながら突破する局面に入る。火が塔の縄を舐め、煙が低く唸る。だが私たちは火の中で動いた。火より速く、羽より鋭く。黒衣の刃が四方から襲い掛かる。狭い回廊は刃の稲妻で断続的に光った。
「塞げ!」
ギブン様の声が低く響き、ほどなく四方への指示が飛ぶ。カイ様は王妹殿下の傍らを死守し、短剣で相手の肋を外していく。狼集団は屋根の上で燭台の燃え移りを制御し、外周の余波を封じた。私はシャロット姫の前に体を投げ出し、薄布を崩れないよう抱き留める。彼女は瞳をこちらに向け、震えた唇で告げた。
「……あなたは、誰ですか」
その問いにうろたえる暇はない。私は手を伸ばし、布の縁をつかんでぎゅっと握り返す。
「トウコです。あなたを連れ出します」
姫の瞳が一瞬だけこちらに捕まる。弱さの中に爪先の強さが光る。救いはいつも小さな応答から始まる。刃がまた一閃、鋭く飛ぶ。私は秩序のために手を伸ばし、肘で受け止め、膝で滑らせ、身を投げ出して殿下を庇う。痛みが肩に走る。誰かが私の名を呼んだ気がしたが、声は廃墟の轟音に飲まれた。その時、回廊の入口で空気が裂けた。銀の一閃が夜を割く。
「そこまでだ」
ルカ様が立っていた。銀鎧は炎の反射を受けて煌めき、彼の後ろに立つ影が長く伸びる。彼の両手には柄の長い剣。だがその構えは、斬るためのものではなく裁くためのものだった。礼装の男が動く。だが一拍遅い。ルカ様の一閃は男の前に空気の壁を作り、刃の軌道を粉砕した。衝撃で床の瓦が散る。礼装の男は片膝をつき、完璧な制圧の余波の中で、わずかに笑った。
「やはり来たか。一国の王子である、あんたが来るとは」
その声は挑戦にも似ている。だがルカ様は答えない。ただ一歩前に出て、男の肩口を指先で突いた。指先が触れた瞬間、礼装の男の肩の装飾が震え、五芒星の羽の紋が淡く反応した。
「――お前の名を言え」
その言葉がただの質問ではないことを、私は本能的に理解した。ルカ様の言葉は相手の存在の根拠を断つ。礼装の男は顔色を変え、目の奥で焦燥が揺らいだ。
「私の名は意味を持たない。だが祈りの秩序は必要だ」
彼がそう言うと同時、四方の黒衣が足を止めた。それは合図か、逡巡か。礼装の男が指先で何かを弾いた。小さな護符が空中に飛び、回廊を瞬間的に覆う。護符は風に乗って刃のように舞い、我々の足元をすり抜ける。だがその護符はすべてルカ様の掌内で粉砕された。彼が手を振るだけで、護符は砂のように砕け落ちる。礼装の男の顔が一瞬で血の色を失う。
「お前らは正義の仮面を被っている。だが我々は人を守る。そして妹を——この手で守る」
ルカ様の声に込められた静謐と熱。彼は礼装の男の胸に一撃を入れた。斬撃は肉を裂くでも骨を砕くでもない。相手の軸を断つ一撃だった。礼装の男は呻き、膝を折る。だが息がある。その表情はヒトとしての苦悶を晒した。その隙にカイ様とギブン様が礼装の男を取り囲む。カイ様は男の刃を取り払い、ギブン様はすばやく手錠じみた縛具を投げつけた。礼装の男は抵抗の余地を奪われ、静かに膝をついた。戦場は瞬間の静寂に包まれる。刃の音が消え、喘ぎが空気に混じる。
「奪還完了とは言わせない」
礼装の男は唇をかすかに動かした。だがルカ様が近づき、その言葉を遮った。
「お前の祈祷の根拠を全て吐け」
ルカ様の声は冷たく、命令ではなく審判だ。男はしばらく沈黙した。やがて静かに言葉をこぼした。
「……羽印は、別のものだ。薔薇ではない。上に“羽の印”がかぶさっている。薔薇は傘だが羽は風だ。風を動かす者がいる」
その言葉に、私の中で何かがまたひび割れた。羽の印。――封蝋の印。あの封筒の紋。上層の存在。
「名を言え」
ルカ様の問いは、氷のように突き刺さる。
「名は、仮に白い翼の会としよう。我々は表向きの名を持たないものでね」
礼装の男の唇から出たのは、警告か最後の抵抗かもしれない。彼の瞳には恐怖と諦観が同居している。その時、シャロット姫が薄く目を開け、私を見た。彼女の視線はまだ脆く、それでも確かな温度を含んでいた。
「……ありがとう、トウコさん」
その一言は短く、それでも世界を満たすほど大きかった。私の胸が熱くなっていく。救いは確かにここにあったのだ。しかし静かな勝利の余韻は薄かった。礼装の男の言葉は、私たちの背後で暗い風を吹かせている。白い翼の存在、羽の印。これは終局の序章に過ぎない。
「今はまず、シャロット姫を安全に」
ギブン様が即座に言い、医療の手配と撤退路の確保を命じる。ルカ様は最短で姫を運ぶために人員を整理し、カイ様は残る敵の掃討と連行命じた。私は彼女の手を軽く握る。指先は冷たく、でも生きている。火と恥辱と祈りに引き裂かれそうになったこの夜に、私たちは小さな勝利を手にした。ただ、紙の封蝋の印が示した上の風が私たちを追ってくることは確実だった。廃聖堂の外に出ると、月が薄く顔を出していた。海の風が羽を含んだように冷たく吹いた。シャロット姫は実の兄の指揮のもと、護送騎へ移された。彼女はまだ震えていたが、目には焦点が戻っている。その目に触れた瞬間、私は初めて肺の奥から息が抜けた。ギブン様が簡潔に命じる。
「シャロット姫は王城の内郭へ直送。医療班と入れ替わりで我々はそのまま王城の査問室へ。休息なしだ」
「上等」
カイ様が嗤った。
「眠るのは全部が片付いた後だ」
その時、ルカ様は何も言わなかった。ただ馬の手綱だけを握り、顔も声も夜に沈めたまま進発の合図を出した。それでもその顔には妹を取り戻した安堵が宿っていた。