最難関攻略キャラ、愛しのルカ様は今宵私の手のひらで踊る


 王都の門が開かれたのは夜の二刻過ぎ。しかし衛兵たちは驚かない。先触れは既に走っていた。祈祷未遂、シャロット姫救出、この街はまだ眠らせてもらえない運命らしい。城内の回廊に入ると、空気が一段硬くなる。ギブン様が振り向いて言った。
「報告は一つにまとめる。余計な枝葉は落とす。“薔薇織連盟”——補給線と選別線を摘発。祈祷未遂の首謀は“金糸会内部の一部”に限る。いいな? 羽印については今は伏せておく」
 私は即座に理解した。……“羽”はまだ証拠が足りない。ここで出せば潰される。
「異論はありません」
 カイ様も無言で頷く。王都で帰りを待っていたセシリア嬢に事の経緯を説明した。彼女は即座に理解して、記録役の書記に耳打ちして回った。ルカ様だけが一歩だけ遅れて歩み、低く言う。
「……伏せるのは構わない。だが、“羽”は必ず戻ってくる」
 その声だけが城の壁に吸い込まれず残った。査問は早かった。短く、冷たく、必要な要素だけが並べられた。
 ・青紐倉庫 → 補給線の摘出
 ・孤児院 → 選別線の摘出
 ・廃聖堂 → 祈祷未遂の阻止
 ・シャロット姫 → 無傷で奪還
 監察官は深く頷き、最後に言った。
「シャロット姫を奪還できたこと、感謝する。以降、彼女の警備はより厳重に執り行う。……よくぞここまで切り取った。ただしこの一件は“今日で終わる”と思うな。悪意は必ず別の名に着替えて戻る」
 ……戻る。それは私たちが一番分かっている。
 報告が終わった瞬間、私たちは解散を命じられた。だが部屋を出る前、ルカ様が静かに振り返った。
「終わりではない。第一段階だ。羽の名はこれから暴く」
 まるで誓いのような声音だった。解散後、私は一人で廊下に残った。壁にもたれ、傷の疼きを確かめながら息を整える。……今日も守れた。でも守り切ったわけじゃない。
 風が回廊の窓から吹き込む。その風は羽根のように細く冷たく——まるでまだ見ぬ敵の予告状だった。私は目を閉じて言った。
「来るなら来なさいよ。全部切り落とすから」
 声は小さく、だが決して震えなかった。その背中に足音が静かに近づく。
「まだ眠らないつもりか」
 振り返らずとも分かる。その声はルカ様。戦は終わっていない。なのに、この声を聞くだけで心臓は一瞬だけ緩んでしまう。私はゆっくり目を開けた。
「眠れませんよ。まだ続きがあります」
 ルカ様は短く笑った。笑い声というより、呼気に混じった熱。
「ならば——次も来い。まだお前の役は終わっていない。少しは寝ろ。もうずっと眠っていないだろ」
 その言葉は命令でも赦しでもなく、選抜だった。その言葉に安心し、私は自分の部屋に戻った。そして泥のように深い眠りについた。
 昼過ぎの王城は戦の余熱だけを残して静かだった。私は廊下の窓辺に寄りかかり、冷たい石に背を預ける。静かさに身をうずめるが“次の敵”がもう起きている確信だけはあった。薔薇を切った。金糸の汚染も炙った。——それなのに、根はまだ動いている。羽印の封蝋が脳裏に浮かぶ。あれは薔薇と並列ではない。薔薇の上に被さる存在。名乗らない組織ほど根が深い。
「考えていたな」
 声がして振り向くとギブン様がそこにいた。書類束を片手に、眠気のない眼差しでこちらを見る。
「“羽”の件だろう」
「はい。薔薇よりも上位、あるいは別系統の……」
 途中でギブン様が緩やかに首を振る。
「違う。別系統でも上位でもない。重なっている可能性が高い」
「重なっている?」
「薔薇の思想と羽の思想は分かれていない。目的が違うだけで器を共有している」
 ……つまり。
「同じ組織が、役割ごとに記号を変えている……?」
「そうだ。薔薇は民衆の層を操作する下への糸。羽は王家と歴史を押さえる上の支点。同じ胴体の左右の腕みたいなものだ。」
 そこまで言って、ギブン様は表情をわずかに曇らせた。
「本来、上は国家が握るべきだ。……だが今、その上に他者の手がある」
 言葉にしない部分が喉に残った。私も気づいている。……国家の上に、誰かが乗っている!
 そこへ足音が三つ。カイ様が欠伸混じりに到着し、「お、まだ議論か」と肩を鳴らす。続いてセシリア嬢が束ねた紙を抱えて現れ、淡々と告げた。
「シャロット姫が意識を取り戻されました。言葉も明瞭です。……呼ばれています、ルカ様そしてトウコさんを。」
 胸内に小さく波が立つ。シャロット様は意識を戻した直後に私を——呼んだ。しかも実の兄と一緒に。
「行け」
 ギブン様が促す。
「お前の報告が、あの方の現実の手触りになる」
 私は頷き、一歩踏み出した。しかしその一歩目を踏んだ瞬間——。
「待て」
 廊下の反対側から響いた声で、足が止まった。振り向かずとも分かる。その声は鋼を磨いた低音——ルカ様。廊下の空気が一段沈む。私はゆっくり彼の方へ顔を向けた。銀の影が静かに歩み寄り、私の目を真正面から射抜く。
「羽の件これからは俺が前に立つ。お前はもう最前に立つな」
 命令の声音だった。だけどその奥にあるのは、命令とは別の温度。私は息を吸い反論しかけた。
「でも——」
「違う」
 ルカ様は遮り、静かに告げた。
「お前は切り込みの役ではない。守った結果を仕上げる側だ」
 胸が殴られたみたいに熱くなる。それは降格ではなく任命だった。私は目を伏せずに答えた。
「……承りました。では、“仕上げ”まで必ず行います」
 ルカ様の目がわずかに細くなった。言葉を使わない承認。私は再びシャロット姫の部屋へ向けて歩き出す。もちろん、姫の兄であるルカ様と一緒に。その背にギブン様が言葉を投げた。
「トウコ、一つ忠告だ。羽はまだ探している最中の相手じゃない」
 歩みを止めずに問う。
「では、何ですか」
 ギブン様は短く言った。
「もうこちらを見ている相手だ」
 その言葉が背骨に深く沈んだ。……つまり、白翼はもう私たちを認識しているということね。なら迷う余地なんてない。姫に会い、この戦いを本格的に“第二段階”へ引き上げるまでよ。
 シャロット姫の部屋は、王城でも最も静かな一角だった。扉の前に衛兵が二名立ち、ルカ様を見ると無言で道を開けた。中に入ると窓は厚布で閉ざされ、空気は柔らかく暖められていた。寝台に横たわる彼女は、こちらを見ていた。瞳はかすかに赤い——泣いた痕ではなく、恐怖と痛みに耐えた痕跡。私は膝を折り、視線を合わせた。
「シャロット、大丈夫か。迎えが遅くなってすまなかった」
「お兄様、顔をあげてください。私が弱いのがダメだったのです。抵抗もできず捕らえられてしまう、シャロットが悪いのです」
「そんなことはない。すべてはあいつらが悪いのだ」
 ルカ様はその大きな手で彼女の頭を撫でた。そしてその目線が私のもとへと向く。
「シャロット姫、助けに上がりました」
 姫は小さく息を吐き、震える声で言った。
「……あなたは戻してくれたのです。私は、自分がもう人ではないと諦めていました」
 その言葉の重さが骨に突き刺さる。私は言葉を遮らず、ただ待った。ルカ様の手が止まり、そっと離れる。彼女は眉を寄せ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「祈祷は……あれは祈りではありません。祝詞を口にしていましたが、あれは祝詞の音を借りた呪い。——命を物に変える儀式でした」
 ……やっぱり‼ 非人道的な奴らめ。
「私を囲んだ者たちは、祈っていなかった。誰一人として神を見ていなかった。全員が“契約の対価”だけを見ていた……」
 声がかすれるたびに胸が締めつけられる。
「契約とは誰とだ?」
 ルカ様の言葉に姫は目を伏せた。
「薔薇ではありません。金糸でもありません。……上にいる者との契約だと言っていました」
 やはり「羽」の層だ。まだ彼女はその名を聞かされていない。その代わり—。—
「一人だけ、祈祷師の上と思われる者がいて……その者は私には一言も話しかけませんでした」
「姿は見えましたか」
「はい。顔は見えませんでしたが——手だけが見えました。白手袋に、刺繍がありました。王冠と羽の紋でした」
 私は息を飲んだ。……羽だけの印じゃない。王権と紋章を同時に扱う階層?
 シャロット姫は震える声で続けた。
「そしてその上位の者はこう言いました。『王家は生きているだけで債務だ。血で払い続ける限り、国は形を持つ』と」
 言い終えた彼女は目を強く閉じた。私は拳を握りしめた。
「……私は、生きていてよかったのでしょうか」
 その問いに、私は一拍も置かなかった。
「当たり前ではありませんか! 生きている人間じゃないと、正しさは塗り替えられません」
 彼女の瞳が涙で揺れる。その涙をルカ様が拭う。でも今度の涙は絶望の色ではなかった。私は姫に一礼し、扉へ向かいながら口を開いた。
「シャロット姫、祈祷は二度と起こさせません。奴らの羽ごと切り落とします」
 彼女は目を閉じ、静かに頷いた。私は扉を開いた。扉の外、ルカ様は一言だけ告げた。
「羽を追う最初の一手は――“端”ではなく“接合部”だ」
 つまり末端も首も狙わない。薔薇と羽が重なる場所を先に折るということ。そこにギブン様とカイ様が合流する。セシリア嬢は既に別動で動いているらしく姿はない。
「接合部は見つかっているのか?」
 カイ様が訊く。ギブン様は短く頷き、書簡を一枚掲げた。
「孤児院・青紐倉庫・廃聖堂──三件すべてに共通して一枚だけ署名がなかった寄付目録がある。金額も献品も正規、だが署名だけが空欄だ。」
「空欄はミスじゃなく“特権”ってことか」
 カイ様が鼻で笑う。
「そうだ。署名を要しない者、羽はその権限を持つ階層に寄生している」
 その時、ルカ様が静かに補足した。
「そして署名の空欄の端にだけ、必ず“羽根の繊維”が混入していた。組織の印ではなく――布そのものが通行証になっている。」
 私は息を飲んだ。
「つまり……署名不要で通る身分を持ちながら、布で暗号を運ぶ立場……」
 ギブン様が言う。
「その条件に該当するのは一つだけだ。王城外郭・文化振興使節団だろう」
 その名を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。そこは慈善活動と社交行事を兼ねた部署。王族にも平民にも接触でき、羽を隠すには最適の公的な顔。
「最初に折るのはそこだ。」
 ルカ様は迷わない声で断言した。
「羽の思想を潰すにはまず、羽が棲める器を砕く。」
 私は尋ねた。
「……潜入ではなく、公式調査として入るのですか?」
「いいや」
 ルカ様は一拍で否定した。その目にははっきりとした火が宿っていた。
「これはもう内偵ではない。叩き落とすための査問だ。」
 空気が一段重く落ちた。ギブン様が書簡を私に差し出す。その宛名には、ひとつの役職が印字されていた。《文化振興使節団・主席補佐官/セシリア嬢 宛》
 目を見開いた。
「セシリア嬢が、接合部に入っている……?」
 その瞬間、後方の闇から声が降りた。
「ええ。私が最初に切られる番なのでしょうね」
 振り返ると、セシリア嬢がそこにいた。表情は崩れていない。しかしその目だけが、静かに覚悟に濡れていた。
「だから急ぎましょう。私が失われる前に——羽を暴く。」
 その言葉は冗談ではない。本当に先に消され得る席に彼女はいる。私は拳を握った。……間に合わなければ、次に奪われるのはセシリア嬢だ。
 闇はまだ終わらない。ここからが本戦だ。廊下の隅に小さな机を寄せ、我々は臨時の作戦会議を始めた。ルカ様はいつものように短く要点だけを出し、ギブン様がその言葉を冷静に分解して指示へ落とし込む。カイ様は正面の警護要員と連携を取り、セシリア嬢は自分の“表の顔”で場を作る準備を淡々と整えている。
「要点は三つだ」
 ルカ様が切り出す。声は夜より濃い。
「一。セシリア嬢を『主席補佐官』として公式に出席させ、文化振興使節団の会合を外向きに開催させる。二。会合で“署名不要の寄付目録”を現場でサンプリングさせ、羽の繊維が混入しているかを現認する。三。羽印を確認したら、その場で公開査問に切り替える。公的場での暴露により羽は器を失い、逃げ場を奪われる。」
 ギブン様が実務の綻びを潰す。
「リスクは高い。公の場での暴露は国の信用を揺るがす。だが今回の相手は信用の背後に潜む。時間差で羽の上層が介入する可能性がある。カイは王城の衛兵と連携し、戒厳的な態勢は取れない。外郭の監視のみで事態を抑える」
「じゃあ、俺は物理で解決するってことだな」
 カイ様は肩を回し、笑う。だが眼は真剣だ。セシリア嬢が静かに書類を広げる。そこには使節団の議題と、今宵の来賓名簿が記されていた。名簿のどの席が署名不要の通行を許すか、彼女は指で示していく。
「私の役目は場を作ること。——そこから、あなた方が仕掛ける。公的に私が疑われるように印象操作をしてほしい。裏の手はギブン様に全て任せます」
 その言葉に、ギブン様は軽く頷き、細かな符牒を渡す。
「会合中、三度の合図を出す。一度目で録音係を動かし、二度目でセシリア嬢に署名サンプルを差し出してもらう。三度目は即時査問の開始。殿下としてのあなたの決断で“公開”か“隠蔽”かを切り替える」
 ルカ様は黙って地図に指を落とし、そこを見つめたまま言う。
「――公開でいい。隠蔽は相手に時間を与えるだけだ」
 セシリア嬢の頬に一瞬だけ影が差したが、彼女はゆっくりと微笑んで答えた。
「なら、私が盾になります。私の立場で羽の存在を炙り出す。その瞬間に皆さんが動いてください。私は表舞台で消耗する役を受け入れます」
 私は息が詰まるのを感じた。彼女は自分が先に失われる可能性を本当に理解し、言葉にしている。だがそこに揺らぎは無い。覚悟がある。
「お前は無茶をするな」
 ルカ様の声に、ただ一瞬だけの苛立ちが混じる。
「無茶は見せるためにするのではない。勝つためにする」
 セシリア嬢の瞳が、冷たく鋭い。ギブン様が最終確認をし、短いスクリプトを私に渡した。私の役は二重だった。表ではセシリア嬢を護る雑用の者を演じ、裏では彼女に接近する者の素性を素早く見抜く。必要ならばその場で布片を押さえ、証拠を確保する。それが私の役割だ。計画は固まった。準備は最後の瞬間まで整えられることになる。
 
 会合の時間は近づいた。会場は王城の望楼を借りた格調高いホール。豪奢だが、今は微妙な張り詰めた空気が充ちる。来賓が集まり、笑顔と祝辞が揃う。だがそのどれもが薄紙のように脆い。セシリア嬢は主席補佐官として、優雅に立ち居振る舞い、誰にも怪しまれないように振る舞っている。彼女の手にはあらかじめ用意された寄付目録の束。そこには署名欄が空白の見本が混ぜてある——つまり“釣り餌”だ。私は会場の隅に隠れるように立ち、彼女の動きを見張る。ルカ様はホールの奥、観衆の影に紛れている。ギブン様は記録係の近く、無造作に見えるが目は余すところなく動いている。カイ様は外周を見張り、移動の入口を封じている。……ここで羽が動くはず。ここで羽が顔を出すかどうかがミソなんだけど。
 酒杯を掲げる微かな合図。数分の儀礼。誰もが祝辞に聞き入っているその瞬間、セシリア嬢がふと顔を上げ、私の方に小さく合図を送った。合図は一拍の静寂。その静寂を合図として、ギブン様が動いた。使節団の司会者が次の議題を読み上げる。会場がそっと静まり返ったその瞬間、司会者の脇で、招かれた身分の高い婦人が立ち上がった。表情は慈悲深い。手には新しい目録を携えている。その婦人の動きは自然に見え、しかし私の指先が痺れた。彼女の手にある目録の端に、微かに光る繊維が混じっている。光は小さく、確かだ——だがそれは“羽の光”とも見える。……き、来た‼
 私は素早く動く。群衆の中で、私は雑用の女のふりをして近づき、軽く目録の端を掴んだ。指先に触れた繊維は冷たく細く、羽根の繊維そのものだった。だが、それを口に出して言ってはいけない。公の場だ。証拠は音ではなく物にしなければならない。私はそのまま手元に忍ばせ、合図の瞬間を待つ。ギブン様の腕が微かに震え、その合図が私へ伝わる。会場の空気が再び固まる。セシリア嬢が正式に目録の寄付者を読み上げ、署名欄を“記入不要”のまま指差した。周囲の者は一瞬戸惑う。それが狙いだった。その「戸惑い」の間に、私は静かに目録の端を引き抜いた。繊維は確かに“羽の混入”を示している。だが同時に、その端に微かな別の痕跡——小さな五芒星の刻印が、封蝋の断片とともに付着していた。……羽だけじゃない。羽の紋に五芒星が混ざっている⁉
 鼓動が波打つように早くなる。これが侵食の証だ。だが公の場で駆け出しても事態は膨らみ、王家を危機へ追い込む。タイミングがすべてだ。ギブン様が口角を僅かに上げ、合図を送る。ルカ様の目が奥で燃える。そしてセシリア嬢は微笑みながら、ゆっくりと声を張り上げた。
「皆様、この寄付目録の中に不自然な点が見つかりました。署名のない項目……私たちはその由来を確認します」
 その瞬間、会場の一角がざわついた。公的場での疑いの投げかけは、帳尻を狂わせる。だがそれこそが我々の意図するところだ。私の手の中の繊維と封蝋の痕跡は、証拠として次の段取りに回される。表では淡々と進む調査。裏では我々の手が一斉に伸びる。――羽は風に乗って逃げようとするだろうか。それともここで初めて露わになるのか。だが、空気はもう昔の平穏ではなかった。セシリア嬢の一声が会場へ落ちた瞬間、笑顔の仮面が一斉にひずんだ。寄付目録の“署名欠落”に言及することは、「この場の誰かが不正に関与している」と宣言するのと同義だ。その時、鋭い刃が置かれた。
「不自然……? どういう意味かしら」
 最初に声をあげたのは、羽繊維を持っていた貴婦人だ。声は柔らかいが、目だけが笑っていない。だがセシリア嬢は完璧だった。怯えず、怒らず、ただ公的手続として淡々と答える。
「文化使節団の寄付記録は公文です。署名の無い寄付は“存在しなかった扱い”になります。例外が認められるとおっしゃるなら、その理由を今この場で明記して下さい」
 逃げ道を潰す宣告。その瞬間、パリンと誰かの酒杯が震えて割れた。場の空気が初めて動揺という色を帯びる。そして——動いたのは声の大きい人間でも、動揺した下っ端でもなかった。会場の奥、最初から沈黙を保っていた一人の紳士が立ち上がった。黒でも白でもない中庸の礼装。年齢は四十代前後。肩章の紋は——王家直轄案件にのみ許される階位。口を開く前から、周囲の空気が膝を折る。
「……署名なき寄付は、王家の特例として処理してきた慣習があるはずだが」
 その一言で、十数名の来賓が一斉に頷いた。……羽はここにいる。
 私は即座に理解した。彼は名乗らず、正面には出ず、王家の名の陰を借りて舌を動かしている。ギブン様が一歩前へ出て、静かに返す。
「慣習は法律ではありません。署名なき寄付は“追跡不能資金”です。この場には、その資金の使途を説明できる方がいますか?」
 空気が硬直する。沈黙そのものが罪の証拠になりはじめている。そこへ、紳士はゆっくり視線を持ち上げ、セシリア嬢に向かって言った。
「君は自分が今何を壊しているか分かっているか?」
 脅しではない。廃棄の宣告だった。その瞬間、私は反射で動きかけた。だが隣から、静かに腕を押さえる手があった。——ルカ様だった。
「まだ動くな」
 低く短い囁き。私は息を止める。彼の視線は紳士の一挙一動を射抜いている。紳士は続けた。
「君がその席にいる理由も、君がその席から消える方法も、我々は幾通りも持っている」
 会場にざわりと冷笑が広がる。あらかじめ用意された葬送の言葉のようだ。セシリア嬢は逃げなかった。
「では——私が消される前に、理由を公文にしてください」
 声は震えていない。静かな挑戦状だった。紳士の瞳孔がわずかに揺れる。余裕が一滴崩れた瞬間だった。その隙でギブン様が即座に割り込む。
「王家の特例だと主張するなら——誰の許可かを、今ここで名義化して頂く」
 場が弾けた。張り詰めていた弦が裂けた音が、空気を切った。紳士の喉がわずかに鳴った。そのわずか一拍……ここで言わせるしかない。
 私は覚悟を決めた。この瞬間を逃せば、羽は再び姿を消す。私は静かに一歩、前へ出た。背後でルカ様の声が低く落ちる。
「トウコ、言うなら刺し切れ」
 私は頷き、会場全体に聞こえる声で言った。
「この寄付は“祈祷に使われた系統の資金”です。この場にその責任者がいます」
 その一言で、会場は真横に割れた。驚愕で息を呑む者。怒気で眉を吊り上げる者。沈黙して目を逸らす者。笑ったまま凍りつく者。そして——最も遅く反応した者が一番の当事者だった。先ほど立ち上がった紳士が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。怒りでも動揺でもなく値踏みの目だった。
「……面白いことを言う」
 声に温度がない。誰かを殺す前に手袋をはめ直す時のような声だ。
「なら聞こう。誰がその資金を祈祷に使ったと言うのか。——名を挙げよ」
 面と向かった挑発。名を言わせたところで「証拠は?」と切り捨てるつもりだ。だが私は乗らない。
「名はここでは言いません。署名欄が空白で通る特権者がその証人になります」
 ざわめきが走る。署名不要はつまり、この場の誰かが羽の通行証を持っているという宣告だ。紳士の目の奥がほんの一瞬だけ揺れた。そこへ重ねてギブン様が刃を横から入れる。
「署名なき寄付は王家の特例と先ほどあなたは言った。ならば確認しましょう。その“王家の名義”をあなたがここで保証するのですね?」
 会場全体の視線が紳士一人に刺さる。逃げれば自白、応じれば共犯。完璧な檻だ。紳士は笑った。静かに、しかし膨張するように。
「……なるほど。ここで殺す気で来ているのだな、君たちは」
 その瞬間——空気の底が変わった。怒りでも狼狽でもない。居直りだ。罪を認めぬ者の支配者の声音。
「勘違いするな。王家は血で国を買っている。祈祷は取引だ。我々はただ支払い係に過ぎない」
 堂々と正当性を口にする声。場にいた何人かがその論理に頷きかける。……洗脳だ。集団正当化だ!
 紳士は更に続けた。
「罪人がいるとすれば、それは支払いを拒む者だ。シャロット姫を救ったお前たちこそ、この国を無担保にした裏切り者だ」
 賛同の波が生まれかける。油断すれば会場の空気ごと奪われる。私は一歩前に出た。その声は揺れていない。
「その理屈なら——あなたは今、王家は存在するだけで罪だと言いましたよ」
 会場が静まる。
「あなたが言った。『王家は生きているだけで債務だ』と。その言葉は王を否定する思想そのものです」
 視線が一斉に紳士へ向く。これは祈祷の擁護ではない。王権そのものの否定の告白に等しい。紳士の指が震えた。初めて彼の顔に人間の色が浮かぶ。そこへ——。
「だからこそ“羽”は薔薇の上にいる。王の上に立つ思想だ」
 紳士の口から初めて、白翼の本質が言葉として零れた。一気に会場が凍る。……言わせた——白翼は王の上に立つ思想だ。
 その瞬間、会場の扉が外から叩き割られた。怒号が走る。甲冑音。外から別の勢力が突入してくる。まるで“羽”が切られる前に自ら乗り込んで来たように。巨きな衝撃が会場の扉を叩き割った。叫び声が一瞬にして飲み込まれ、破片が飛沫のように舞った。入ってきたのは衛兵ではない。礼装でもない。黒でも白でもない、霜灰色の外套を纏った者たち——肩章には紋章なし。だが胸元の刺繍だけが、月光の下で微かに光った。羽だ。ただしそれは白一色ではない。白の上に、王冠を跨ぐ細工糸——王権と羽を重ねて縫い付けた印。これはもう潜伏ではない。権力そのものを名乗って入ってきた顔だ。会場は悲鳴を上げ、列席者は蜘蛛の子を散らすように後退した。その騒乱を割るように、羽の一人が口を開く。
「この場での査問は無効とする。——王家の特例案件に手を出す権限は貴殿らには無い」
 その声は法律の読み上げではない。処刑宣告の口調だ。ギブン様が即座に一歩前へ出る。
「ならば答えろ。“王家の特例”とは誰の承認だ。名前を言え」
「言う必要はない」
 羽の男は即答した。その無礼がすでに答えだった。セシリア嬢が壇上に立ち、震えもせず告げる。
「ここは文化使節団の公式会合です。公的議題の停止権は主席——つまりこの私にあります。あなた方の介入は“違法の先例”として議事録に残ります」
 逃げない。揺れない。見事だった——だからこそ、狙われる。羽の男の指先が、ゆっくりとセシリア嬢に向いた。
「君は今日、壇上に立つべきではなかった」
 その瞬間、羽の二人が一斉に動いた。刃は抜かれない。拘束用の黒布が閃く。声を出せぬまま連行するための布、それは消すための布だ。セシリア嬢を奪う気だ!
 私は反射で走った。しかし人混みと机が壁のように遮る。……くっ、間に合わない。
「下がれよ」
 その刹那、低い声が空気を裂くと同時に羽の男二人が後方へ吹き飛ばされていた。衝撃の主はルカ様。刃は抜いていない。拳でもない。ただ身体一つの初撃で人二人を無力化した。会場が息を呑む。倒れた羽の肩布から滑り落ちた刺繍が露見した。その紋は——王冠と羽の刺繍の奥に、さらに 小さな五芒星 が縫い込まれている。……三重構造。王の上に羽、そしてさらにその上がいるって言うことね。難しい!
 思考が凍ったその時だった。今度は壇上にいるセシリア嬢の背後の扉が静かに開いた。そこから入ってきた影は——片手に封蝋、片手に杖、顔は見せず。羽でも薔薇でもない気配。だが壇上に立つ資格を持つ高さ。その影が静かに言った。
「セシリア君、本日をもって君は解任とする」
 ざわめきが悲鳴に変わる。ここで切り捨てに来た。正式な処罰として合法の形で。空気が凍る中、私は一歩踏み出した。……このまま黙れば、セシリア嬢は正義の形で処刑される。そんなの許さない。
 ここはもう——論理ではなく、宣告で対抗する局面だ。私は息を吸い込んだ。
「それは無効です。この場の議事録に先に残ったのは、羽が王権の上に立つという証言です」
 扉の影の足が止まった。私は止めずに言い切った。
「ゆえに今の解任は、王権を超える組織の意思として記録されます」
 会場全体が凍りついた。……刺さった! ここで相手は二択しか取れない。否定して羽を切り捨てるか、認めて国家反逆を宣言するか。さぁ、あなたはどう出るの。
 扉の影がこちらへ首を向けた。その口から初めて、羽の上の階層の声が落ちる。次の一言がこの国の秩序を決定的に割る。扉の向こうの影は、逃げも怒号も選ばなかった。ただ淡々と、まるで裁判官が判決を読むような声で言った。
「記録すればいい。王は支配者ではなく被支配層であるという記録をな」
 神でも反逆者でもない、構造そのものを宣言してきた声。会場の誰もが息を止めた。
「以後この国は、祈祷をもって存続する。拒む者は支払い拒否の反逆徒だ」
 ……コイツっ、正面から宣言した。
 羽は隠れるのではなく、最初から上に立つ前提で動いていたということだ。その宣告に、会場の数名が小さく頷き始めた——危険な揺らぎ。空気を乗っ取られまいと私が声を出そうとした時、先に動いたのはルカ様だった。踏み出すだけでその場の温度が変わる。
「王を債務者と呼ぶなら、その債権者はこの国の誰でもないということだ」
 低い声が壁に響く。
「つまりお前たちは、この国を外に売っている」
 その瞬間、会場の目が一気に揺れた。「外」──民にとって最も忌む言葉。羽の影は一拍の沈黙の後、冷たく笑った。
「王が守れぬ国を、誰が守る? それは我々だ。だから上に立つ」
 まるで愛のような論理で支配する声。その言葉に、数名がまた頷きかけた——その瞬間だった。カイ様が机を蹴り飛ばし、叫ぶ。
「黙れ。国を人質にする奴が守ってる顔すんな!」
 場が揺れる。そこへギブン様が畳みかけるように言葉を投げた。
「祈祷で国が延命するなら、人間は祈祷の材料という前提になる。それを国家理念にするつもりか?」
 扉の影は揺れない。その代わりわずかに鼻で笑う。
「材料はいつの時代も選ばれてきた。世界はそうして維持されている」
 その冷酷な正論めいた毒が空気に広がった瞬間——横で立つセシリア嬢が一歩前に出た。
「なら、最初の材料は“あなた”が成りなさい」
 ざわつきが爆発する。誰もそれを言えなかった場所で、彼女は言い切った。扉の影の目が初めて細くなる。……っ、セシリア嬢! 私も同じ意見です‼
 私は胸を抉られるほどの焦燥と同時に、どうしても逸らせない視線を感じて横を見る。ルカ様が私を見ていた。戦の最中、炎の渦の真ん中で、ただ私ひとりを見ているような眼差しだった。言葉はないがその意味を察した。……これはまだ戦じゃない。宣告戦だ。次の一声でこの場は刃に変わる。そうでしょ、ルカ様?
 私はわずかに首を縦に振る。それだけでルカ様の眼に火が宿った。伝わったようだ。たったそれだけの合図なのに、胸が焼けるほど苦しく甘い。終わったら——必ず言葉になる。今はまだ始める前だ。扉の影が、ついに杖を床に打ちつけた。
「無駄だ。この国はすでに王を頂点にしない。」
 その宣告が落ちると同時に、羽の実働部隊が一斉に抜刀した。ついに言葉の戦が、刃の戦へ切り替わった。その金属の呼吸と同時に、観衆が悲鳴を呑み込む。足がすくむ者、出口へ殺到する者——場の構造そのものが崩れる前兆。私は走り出そうとしたがルカ様に阻まれる。強くでも優しくでもない。止めるための力で掴む手。
「トウコ。前に出るな」
 抑え込んだ焦りが言葉に乗っていた。私は振り払おうとした。でもその一瞬、目が合った。——殺気ではない。迷いでもない。『お前だけは斬らせない』という意思だけが燃えていた。胸が一瞬止まった。この人は私一人にだけ怒っている。敵にではなく、私が死ぬ可能性に対して怒っている。どこまでも優しい人だ。それが痛いほど分かる温度だった。
「……離してください。私も戦えます」
 言い返した声が震えなかったのは奇跡だ。ルカ様の目が細くなる。
「戦えるかどうかじゃない。死ぬ位置に立つなと言っている」
 低く押し殺した声。喉の奥に噛み殺した何かが見える。言葉が出なかった。その一秒を——羽の兵が殺到してくる音が裂いた。もう迷う暇はない。私は掴まれた腕を自分で外し、背へまわして退路を確保した。同時に前方へ飛び出したのはカイ様だった。
「正面は俺が潰す! 散れ!」
 ギブン様が即座に指示を走らせる。
「セシリア嬢を囲って防壁を作れ! トウコ、後衛に回れ。絶対に死ぬな!」
 羽の刃が光る。会場の中央で火花が弾ける音——戦が始まった。私は深く息を吸ったさっきの一秒がまだ脈に残っている。……守られてばっかりだ、これじゃダメなのに。
 それでも、守られているという事実は確かにここにある。それが痛いほど熱く、この瞬間だけは力になった。私は足場を蹴り、第二列に回り込んで戦線に入った。刃と布が擦れるたびに、空気が血の匂いを帯びる。羽の兵たちは訓練されていて、動きが幾何学的だ。切り込みと抑え、転進と回収が無駄なく噛み合う。対して我々は「守るための混沌」を組み立てる。つまり、相手よりも“守る対象”が明確なぶんだけ動きに芯がある。カイ様の一撃が正面の列を切り裂き、床が軋んだ。その隙に私は側面から滑り込み、羽の兵一人の肋を外す。その刃が当たる直前に体を回しただけで、骨が固まるような音がした。痛みが走る相手の顔に、我々側の憤怒が映る。セシリア嬢は壇の傍で防壁を構築している。周囲を取り囲む兵士たちが一枚の盾のように折り重なり、殿下を包む。だが羽の手先は賢く、盾と盾の隙間を狙って刃を滑らせる。私は瞬時に二手を打つ。一つは隙間に飛び込んで相手の手首を掴んで刃を逸らすこと。もう一つは後方にいる羽の操作役を視認し通報すること。小さな仕事だがここでの小さな勝利が、シャロット姫やセシリア嬢の命に直結する。背後で、ギブン様の指示が割れて回る。
「二重の防壁を作れ! セシリア嬢の左右を固めろ! トウコ、ここに伏兵を張る! カイ、隊長と合流して左翼を潰せ!」
 言葉が行き渡る。動きが変わる。羽は流れを乱され、刃の軌道が一瞬だけ鈍る。その一瞬を私は見逃さない。飛び込んだ相手の手首を強く握り、膝を当てて体を沈める。刃は床を引っ掻いて届かず、相手は驚いて視線をこちらに戻した。私の顔が近い。彼の目の中に、一瞬だけ人間臭さが見えた。その隙に、私は相手の袖を掴み裂き、内部から小さな封蝋片を押さえ込む。証拠だ。証拠を取ることが、後で羽を公的に縛る鎖になる。だが戦場は優しくはない。別の兵が脇を襲い、私は刃の先を避けるために体を捻る。肩に熱い痛みが走る。包帯の下の古い傷がまた疼いた。だが痛みは醒めない。胸の奥で、さっきのルカ様の目が反芻する。“お前だけは斬らせない”。その一瞬の光が、私を動かす燃料になっている。動機が戦術に変わる。怒りでも、恐怖でもない。守られているという事実が私の足を速くした。刃を交わしている最中にも、彼の視線が何度も私を探す。戦場の雑音の中で、その視線だけが私に語りかける。言葉は無いが、確かにそれは囁きだった——「ここにいるな」と「戻れ」という混ざった命令。私はその囁きを胸に刻み、さらに前へ進む。目の前の羽の兵が力で押し込み、私の膝が床に擦れる。息が切れ、世界が少しだけ赤く歪む。だが、そのとき——背後の空間に、鋭い風が走る。銀の影が翻り、音ともない速度で羽の兵を裂いた。ルカ様だ。彼の剣先が空を切る。斬撃は無言の抹消ではなく、敵の姿勢を裁ち、命脈を断つ。刃がすれた瞬間、彼の眼差しが私に向かう。戦いの只中で、私と彼は一拍だけ世界を共有する。
「トウコ!」
 彼の口が動いた。短い呼びかけだが、叫びにも似ていた。鼓膜を震わせるその音に、私の胸が熱くなる。戦闘の渦中にあっても、私はその一声で裏目を取られることはないと確信する。世界が雑然と吠える中で、彼のその一声だけが私の名を確かに呼んだ。呼ばれた瞬間、何かが弾ける。感情が言葉を飛び越え、身体が率直に反応する。……私は――この人に当たり前に守られていいのだろうか。そのためにこの世界に来たの?
 問いは戦場には似つかわしくないが、それが泡立つほど苦く甘い。刃がまた交差する。私は反射的に前に出て、セシリア嬢の防壁の一角を引き締める。刃の先が私の腕に当たり、冷たい痛みと熱い鉄臭が同時に襲う。その瞬間、彼の手が私の肩を掴んで引きつけた。接触は短く、しかし衝撃的だ。戦場の熱で伝わる彼の掌の温度が、私の背中に残る。私の呼吸が一瞬だけ乱れ、胸の奥である感情が小さな火花を散らす。それは言葉にならない何か——確信と怖れと甘さが混じった感覚。だが今はそれを育てる暇はない。刃が新たに飛来し、私は即座に体を翻して相手の動きを封じた。
 戦いが続く。互いに命を賭ける一手一手が積み重なり、観衆の悲鳴は遠くへ押しやられていく。やがて、ギブン様の合図と共に我々は押し返しの態勢を取る。ギブン様の戦術眼が光り、羽の布陣に微細な裂け目が生じる。そこへカイ様とルカ様が集中攻撃をかけ、数名の羽が床に沈む。空間が一瞬だけ静謐になる。その静寂の端で、私はルカ様の方を見る。彼は血が滲む剣を片手で押さえ、顔にわずかなひきつりを見せたが、目だけは私を探している。私は小さく頷いた。それだけで彼は少しだけ口元を緩めた——戦場で見せた、ほんの一筋の柔和。戦いの音はまだ続いている。だがこの一連の攻防で分かったことがあった——羽は公に出ることで逆に「名」を晒してしまった。今、我々は彼らの顔を掴み始めた。だが「上の羽」はまだ動いている。夜の向こうに、その影が揺れているのが見える気がした。押し返した瞬間の静けさは、刃の前奏に過ぎなかった。床に沈んだ羽の体が熱を奪われる間にも、彼らは後方へ退き、再編を始めている。だがその「後退」は撤退ではない。誘導だ——人払いを作り、次の一手へと客席を切り取る。会場の外縁で、羽の指揮者格が冷ややかに手を振った。彼の合図で、別動隊が暗闇からすっと浮かび上がる。動きは速く、手際はさらに洗練されていた。糸のように伸びる黒布が再び空間を横切る。狙いは明白だった。セシリア嬢の直掴み。公開の場を逆に利用した速攻拉致。――その瞬間、ギブン様の顔色が変わった。
「横殴りだ。全員、閉じろ!」
 命令が雷のように飛ぶ。だが羽は想定の一歩上を行っていた。彼らはただ奪うだけではない。人垣を割き、儀式用の拘束具でその場を“合法的に固定”する算段だ。合法の空気によって、王城の守りの手を縛る。政治と武を同時に奪いに来る。私は刃を払って振り向いた。セシリア嬢は、防壁の中心で堅く立っている。彼女は盾の輪の中で微笑を作り、誰にも見せない緊張を顔に滲ませていた。だがその微笑みの先、羽の一隊が横合いから跳んできて、盾の列の束を蹴散らした。
「セシリア嬢、離れて!」
 声は出た。だが仲間の間に微かな裂け目ができる。刃が跳ね、手が伸び、黒布が絡む。その時だった。黒布の一端がセシリア嬢の上腕に絡まり、撥ねた瞬間に数名の羽が壁のように彼女を押さえつけた。人の手が、彼女の動きを封じる。――外套の隙間から現れたのは、細いくくりの黒縄。儀式道具の縮小版のように冷たく、絞め上げるために設計されていた。
「ぎゃっ!」
 一瞬の悲鳴が上がる。だが悲鳴はすぐに布で塞がれ、セシリア嬢の唇が抑えられる。彼女の顔に、ほんの一瞬の驚愕と——それでも崩れない矜持が混じった。私の脚が勝手に走る。だが、目の端に見えたのは、ルカ様が同じ方向へ向かって剣を握る姿だ。刃と刃が同じ場所へ向かう。二人で、同じ一点を守るつもりで走る。だが羽の数は多い。刃が交差し、振り落とし、私は一人の羽に腕を切りつけられ、鋭い痛みが脇腹から広がった。赤が広がる。だが痛みはかえって現実を絞め、私の中の何かを鋭くした。――そのとき、セシリア嬢の身体が真正面から持ち上げられ、二人の羽が抱えて走り出した。
「持ち出す!」
誰かが叫ぶ。刹那、距離ができた。ルカ様が叫んだ。
「行かせるな!」
 言葉の音が、刃を斬る。彼は全力で追いかけたが、羽の動線は計算されていた。二人の羽が人混みを使って、瞬間的にセシリア嬢を抱えて場を切り裂く。衛兵の鎖は間に合わず、会場の扉へ向かって押し出されるように消えていった。
「行くな!」
 私は叫びながら、つまずき、床に膝をつく。血の味が口に回る。――でも、目線の先で見たのは、ルカ様が空を切るようにして前へ飛び、羽の隊の一つに身体を叩きつける光景だった。彼の動きは容赦なく、だが計算され尽くしている。刃が入り、羽が崩れる。だが一瞬の間に、セシリア嬢は羽の腕に連れ去られてしまった。彼がその場で止まる。胸が震える。私は必死に手を伸ばした。
「セシリア嬢!」
 その声に、ルカ様は一瞬だけこちらを振り向いた。戦場の雑音の中で、彼の瞳が私を捕まえた。全身を血と汗で濡らし、剣の鞘に手をかけたまま、彼は私に言った。
「追う。だがお前は退出しろ。シャロットを護るか、私を追うか——選べ」
 その言葉は苛烈だった。命令にも聞こえる。だがその裏にあるのは、切なる祈りのようなものだった。彼は私を信じている。私に“ここに居てほしい”という強い希求を含んでいる。彼の声に、私の胸は突き動かされた。だが今は選択の時ではない。セシリア嬢が外へ連れ去られ、城門の外へ消えていく。時間は刃の速さで過ぎる。私は砂のような震えを抱えて立ち上がった。血が手のひらにべっとりとついている。目の奥で、ルカ様の顔が揺れた――怒りと恐れと、何か言葉にならない感情。彼の指先が剣の柄をぎゅっと握り、唇が一瞬だけ震えた。戦場の只中で、それが人を見せた瞬間だった。
「行け、トウコ!」
 ——ギブン様の冷たい声が耳をかすめた。彼は既に撤退線と追撃布陣を計算している。逃がした相手の後を断つために、我々は分断して動くしかない。私は深呼吸して頷いた。何よりも今、私にあるのは決意だ。胸の奥にルカ様の視線が残っている。彼に守られたという事実が、私を立たせる燃料になっている。――それが甘くて苦い火であることを、私は知りながらも、その火を持って走り出した。
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