愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる
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「あ」と陽菜が俊哉の右肘の外側を指さしてきた。
「ん? ……あ」
 俊哉の口からも同じ声が出た。
 朝の、もう出勤するという時間だった。スーツの右肘をどこかに引っかけてしまったのか、一センチほど裂けて穴が開いている。
 これだけ大きい穴だとさすがにこのまま着ていくわけにはいかない。
 俊哉はしかたなく、寝室に戻ってクローゼットから着替えを出した。
 リビングに戻ると、陽菜が脱いだ方のジャケットを見てきた。
「それはどうします?」
「そうだなあ……」
 もう何年も着たものだから捨ててしまってもいいのだが、初めてフルオーダーで作ったスーツだから思い入れがある。
「フラワーホールにでもしようかな」
「右肘を?」
「右肘を」
 ジャケットの肘から花を一輪のぞかせている俊哉を想像したのか、陽菜がクスクスと笑いだす。
「それは冗談として、修繕に出してみようかな。綺麗に直るかわからないけど」
「でしたら、そこに置いておいてください。私今日はお休みなので」
「それは助かる。ありがとう」
 修繕に出しに行ってくれるのだと思い、俊哉は陽菜にお礼を言ってスーツを買った店を伝えた。
 その晩、綺麗になったジャケットがリビングに置いてあるのを見て俊哉は驚いた。
「ずいぶん早かったな、こういうのって一週間くらいはかかるものかと思ってた」
「私が直したので」
「えっ?」
「これくらいならできそうだと思って。お店に出すと五千円以上はしますし……って、また貧乏くさいこと言ってしまってすみません」
 陽菜は気まずそうに身を縮めた。
 俊哉はますます驚いてジャケットの右肘をまじまじと見た。どこに穴があったのかまったくわからないレベルで綺麗に直っている。
「……すごいな。陽菜は魔法使いだったのか」
「大げさです。かけはぎで直しただけです」
 陽菜が顔を赤くしてもじもじしている。
「それがすごいって言ってるんだよ」
 俊哉は本気で感心していた。かけはぎがどんな技かは知らないが、そう簡単なものではないことはわかる。
 陽菜は本当にものを大事にする。
 俊哉は良くも悪くもものに執着することがいままであまりなかった。壊れたら買い替えればいいし、なくなったら新調すればいいと思っているところがある。
 そういう考え方は、人付き合いにも表れる。合理的といえばそうなのかもしれないが、冷たいといえば冷たい。
「陽菜は本当にすごい」
「もうやめてください」
 照れくささが限界を超えたのか、陽菜はキッチンに逃げた。

 陽菜との生活は、想像していた以上に快適だった。
 普通の恋愛結婚ではないので俊哉に気に入られようと思っていないからか、押しつけがましいところがまったくない。それでいて、ごく自然に気遣ってくれる。
 帰りが遅くなっても不服そうな顔を見せたことがないし、夕飯を食べそこなって帰ったとわかるとうどんなど簡単なものをサッと作ってくれたりする。
 まとっている空気が穏やかで、家ではたいてい勉強しているか本を読んでいる。映画を観ていることもたまにある。
 生活費は潤沢に渡しているはずだが、結婚してから新しい服や鞄などを買っているのを見たことがない。もともと持っているものを大事に使い続けている。遠慮しているというよりは、性格的に贅沢ができないらしい。作ってくれる食事も、俊哉の感覚からすると良く言えばヘルシー、悪く言えば質素だ。栄養バランスは取れているし、味は美味しい。
 俊哉は子供の頃から家族で食卓を囲むという経験がほとんどなく、通いの家政婦さんが作ったご飯をひとりで食べるのが当たり前だった。父は仕事で忙しく、母も家庭的なひとではなかったからだ。そのことに不満を抱いたこともなかったが、毎朝、そして夜もたまにぽつぽつとその日にあった出来事なんかを話しながら陽菜と向かい合って食事をするのは新鮮で心休まる時間だった。

 そんなある日。
 久しぶりに電車で移動していたとき、フラワーショップを見かけて足が止まった。
 数日前の陽菜とのやり取りを思い出す。
 右肘に花を挿して帰ったらウケるだろうか。穴はもうふさがっているのでできないが。
 あのとき陽菜は、珍しく心底楽しそうにクスクス笑っていた。
 フラワーショップの店先には、秋らしいオレンジ色を基調とした手ごろな価格の花束が並んでいる。
 俊哉は花に詳しくない。
 花束を買うことは珍しくない。友人知人の開店祝いや退職祝いなど、折に触れて花束やアレンジメントを手配する機会はある。でもそういうときは予算とだいたいのイメージを店員に伝えてお任せにする。
 並んでいる花束をじーっと眺めていると、営業用の笑みを浮かべた店員が寄ってきた。
「おひとついかがですか。秋らしくて素敵ですよね」
「これをください」
「えっ、あ、ありがとうございます、すぐお包みしますね」
 即決すると店員は驚いた顔を見せたが、さすがプロ、すぐに持ち直して笑顔になった。
 会計をしながら、なぜ急にこんなものを買ってしまったのだろうと、自分でも不思議に思う。
 俊哉は本来、合理的な男だ。必要なものは躊躇なく買うが、必要でないものには目もくれない。
 ただ、この花束を持っている陽菜を見てみたかった。
 そんなことを考える自分に困惑した。
 その晩、早めに家に帰って玄関で出迎えてくれた陽菜にオレンジ色の花束を渡すと、きょとんとした顔をされた。
「今日って、なにかの日でしたっけ」
「えーと……結婚して一か月と三日記念日?」
 適当に答え、呆れられるかと思ったら。
「なんですか、それ」
 花束を抱えた陽菜が、楽しそうにクスクス笑う。
 ああ、自分はこの顔が見たかったのだとわかった。

 それからしばらくして、オレンジ色の花束が全部枯れた頃、陽菜がピンク色のバラを二本だけ買ってきた。
「綺麗だね」
 リビングのサイドテーブルに置かれた、一輪挿しに飾られたバラを見て意外に思った。
 合理性を重視する俊哉とは別の意味で、陽菜は特に理由もなく花を買ってくるタイプではない。節約家の彼女は案の定後ろめたそうな顔をしている。
「お花なんて、食べられるものでもないし贅沢かなとは思ったんですが」
 ひとり暮らししていたときには食費すら削る日々を送っていたと聞いていた。一方俊哉は俊哉で、ほとんど寝に帰っているような家に花を飾るなど考えたことがなかった。
「家のなかが華やかになって、俺は嬉しいよ」
 素直に伝えると、陽菜はホッとしたような顔になった。
「……よかったです」
 花が家にあったからといって、大きく生活が変わるわけではない。
 ただ、本を読んでいる陽菜がふと顔を上げて口元を緩めるような姿が見られるようになった。
 それからは、花が枯れた頃にどちらかが新しい花を買って帰るようになり、花のある生活が日常となった。
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