愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる
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 陽菜の勤めている図書館では、月に三回子供向けのお話し会が実施されていて、毎回二十人前後の子供や親子が集まってくれる。
 児童書コーナーで間近に迫った小学校低学年向けのお話し会で読み聞かせる絵本を選んでいるとき、友里が陽菜を呼びにきた。
「渡會さん、ちょっと」
「はい、はい」
 渡會の苗字で呼ばれることにはまだ慣れない。
「渡會さんのお母さんっていうひとが、カウンターに来てるんだけど」
「えっ」
 本棚の間から顔を出してみると、確かに母らしき猫背気味な中年女性の後ろ姿が見えた。
「私がいるって、言っちゃった?」
「え、言ったけど……まずかった?」
「いや、大丈夫」
 ため息をつきたかったが、友里の手前できない。
 陽菜は足を引きずるようにして、カウンターへ向かった。
「お母さん」
「あら、いたのね。久しぶりじゃないの」
 直接顔を合わせるのは、三か月ぶりくらいだっただろうか。
「この前電話したでしょ」
「この前って、一か月近く前じゃない。そのあと何度も電話したのに、あんた全然出ないんだもの」
「……ごめん。ちょっと忙しかったから」
 嘘だった。けっして暇ではないが、まったく電話に出られないほどではなかった。ただ単に母と話したくなかっただけで。
「それで? なにか用?」
「なにか用? じゃないわよ。結婚して二か月近く経つのに、いまだに旦那に会わせないわ、一度も新居に招かないわ、なんて非常識で冷たい子だろう。今日こそは家に上げてもらうからね」
 唾を飛ばすような勢いでまくしたてられ、陽菜は心のなかで特大のため息をついた。こうなったら母は家に呼ばないといつまでも納得しないだろう。とても嫌だが、職場では揉めたくない。
 二泊三日の出張中で、俊哉がいないのが不幸中の幸いだ。
「あと十分くらいであがるから、その辺に座って待ってて」
 書架の間の椅子を指さして、仕事に戻る。
 児童書コーナーに戻って選書を再開しようとしたが、本を見ても目が滑って全然中身が頭に入ってこない。
 母の言うとおり、結婚して二か月近く経つのに親に夫も家も見せないというのは、たぶん世間一般の感覚からすると非常識なことなのだろう。
 ただ、とても常識人とは言い難い母に常識を説かれたくはない。
 ほとんど仕事にならないまま十分が経ち、二階のロッカールームに寄ってエプロンを外してから一階に戻る。
 母は本を読むタイプの人間ではないから、ただ退屈そうに椅子に座っていた。
「行こう」
「近いのかい?」
「電車で二十分くらい」
 駅名を言うと、母の眉がぴくりと動いた。
「ずいぶん高そうな辺りに住んでるんじゃない」
 駅名を聞いただけでこうだ。実際に家を見たときの反応を想像してげんなりした。
「そんなにいい暮らしをしてるなら、タクシーで行かない?」
「電車で帰ります。嫌ならついてこなくていいよ」
 冷たい子だねとかなんだとか、また文句を言ってくるのを聞き流した。
 育ててもらった恩があるので必要最低限の関りは持ち続けているが、母とはとことん気が合わない。年を取ると、性格は如実に顔に表れる。他責思考の強さやお金への執着、それでいて努力を嫌うところなど、母の顔には母の性格が刻み込まれている。
 母を俊哉に会わせていないのは、こんな親を見せるのが恥ずかしいからだ。恥ずかしいと思ってしまう自分のことも嫌でしかたない。
 俊哉はなんとなくこちらの事情を察しているらしく、結婚の挨拶をする必要があったらいつでも行くとだけ言ってくれている。その気遣いがありがたく、そして少しみじめだった。
 最寄り駅から歩いてすぐのマンションに、母を連れて入る。
「おかえりなさいませ」
 コンシェルジュの女性がフロントの向こうで頭を下げてきた。
「こんばんは」
「ちょっとちょっと、ずいぶん立派なマンションじゃないの」
 母がエントランスのなかできょろきょろと視線をさまよわせる。
 その姿がまるでおのぼりさんのようで、陽菜は恥ずかしくてたまらない。
「早く行こう」
 さっさとエントランスを横切り、もうひとつのオートロックを解錠してエレベーターに乗る。陽菜が押したボタンを母親が見た。
「あら、最上階」
「そうだけど」
 どうしても受け答えがぶっきらぼうになってしまう。まるで子供だ。
 自宅前に着き、鍵を開ける。
 廊下を抜けてリビングに入ると、あまりの広さと豪華さに母は言葉を失った。
「適当に座ってて。夕飯出すから」
 お茶だけで帰すという時間でもない。
 簡単に、味付けして冷凍しておいた肉でも焼こう。
 キッチンで無心になって料理している間、母はずっとリビングのなかをウロウロしてあちこちをじろじろ見ていた。その遠慮のなさが、また気に障る。弾いたことなんて一度もないだろうにピアノにべたべた触るのもやめてほしい。指紋がつく。
「お母さん、ご飯にしよう」
 ダイニングテーブルに母を呼ぶ。
 二十分で作った夕飯のメニューは、サラダに焼いた豚肉、汁物とリンゴだ。
「あら……食べてるものは普通なのね」
 興覚めしたという感じで言われ、嫌なら食べなくていいよと言いたくなる。
 母と差し向かいで食事を摂るのは久しぶりだった。
「あんたの旦那さん、普通のサラリーマンだって言ってなかった?」
「普通のサラリーマンだよ」
「ものすごく年上のエリートとか?」
「年齢は六つ上かな。ただ、実家がちょっと裕福なひとで」
 本当はちょっとどころではないが。
「ふうん……お金って、あるところにはあるものねえ」
 ため息混じりに言ったあと、母は上目遣いになって軽く身を乗り出してきた。母のこの目つきが、陽菜は大嫌いだ。
「ねえ陽菜、あんたこんなお金持ちと結婚したんだったら──」
「仕送りなら増やせないよ」
 陽菜は母の甘い考えをバッサリと切り捨てた。
「なんで」
「うちは夫婦完全別会計だから、夫のお給料が高くてもお母さんには関係ないし、私のお給料は増えてないからね。アルバイトをなくした分、むしろ減ってる」
 母が口をへの字にする。
「なに」
「あんたばっかり、ずるいじゃない。こんないいところに住んで、楽させてもらって。お母さんのアパートが隙間だらけの安普請なの知ってるでしょう」
 陽菜は箸を置いて脱力した。
 ずるい、ときた。
 父と離婚したとき、母はまだ三十代だった。贅沢を言わなければ、いくらでも正社員の口を見つけられたはずだ。そして真面目に働いていれば、今頃そこそこの給料をもらっていただろう。お金がないと文句を言いながら一日五時間程度のパートしかせず、陽菜が高校生になったらすぐにアルバイトをして家にお金を入れるよう言ってきたのは母だ。
 家にお金を入れながら奨学金を借りて大学を卒業するのはきつかった。よく頑張ったと自分でも思う。奨学金はいまでも毎月地道に自分の働いたお金から返している。
 そんな陽菜を、母はずるいという。
「そうだ」
 母の表情が、パッと明るくなった。嫌な予感がする。
「仕送りは増やさなくていいわ。その代わり、同居させてちょうだい」
「は?」
 陽菜は自分の耳を疑った。
「そうだ、そうしましょう。ここに住んであんたに家事をやってもらえたら、お母さんもう働かずにのんびり暮らせるし」
「……そんなことできるわけないでしょう」
「なんでよ。こんな馬鹿でかい家だもの、部屋のひとつくらい余ってるでしょ?」
「余っていたって、お母さんを住まわせる部屋はひとつもないの。ここは夫が買った家で、私は一銭も出してないんだから」
 ぴしゃりと言うと、母は顔を真っ赤にして怒りだした。
「なんて冷たい子なんだろう、旦那に相談してもみないで」
「無理なものは無理なの」
「苦労してる母さんに親孝行したいと思わないの?」
「親孝行って」
 いままでの仕送りなどなかったかのような言い分に、体の奥が冷たくなる。
「……これ以上文句言うなら、もう帰って」
 母は陽菜の出した夕食をきっちり食べてから、不機嫌を隠そうともせずリビングのドアをバタンと乱暴に閉めて出て行った。
 陽菜は母を見送らず、食器の片付けも後回しにして、ソファに寝転んで顔を両手で覆った。疲れた。しばらくは母の顔を見たくなかった。
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