愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる
夕食はバイキング形式で、ホテルのなかで一番大きいレストランで食べた。
カジュアルな服しか持ってきていないので、気取らない雰囲気がありがたい。スタッフもお客さんも陽気で、あちこちで笑い声が起こっている。
食べはじめて三十分ほど過ぎた頃、レストランの照明が一段暗くなり、辺りが静かになった。
「なにがはじまるんでしょう」
「今日のショーだよ。なんだろうね」
今日の、ということは、毎晩なにかしらの催しがあるということか。
グランドピアノにスポットライトが当たり、パーマのかかった髪を肩まで伸ばした男性がピアノの前の椅子に座った。
次に出てきたのは、紫色のカクテルドレスを着た三十代くらいの女性で、女の陽菜から見てもドキッとするくらい美人で脚が綺麗だった。
ピアノの音が鳴り、女性がひとつ微笑んでから歌いだす。古いジャズの名曲だ。深みのある優しい声が、曲名はわからなくとも聞いたことのある曲を次々と披露していく。陽菜は食事を摂る手を止めてうっとりと聞き入った。
三十分のミニコンサートが終わったときには、夢中になって手を叩いていた。
「いい歌だったね」
「素晴らしかったです」
興奮して俊哉の方を向き、笑いかける。
そこで、彼が頬杖をついていままで見たことがなかったような熱のこもった顔で陽菜のことを見ていることに気づいた。
「俊哉さん?」
もしかして、ずっと陽菜のことを見ていたのだろうか。
「喜んでくれてよかったよ。連れてきたかいがあった」
にこっと笑った俊哉は、いつもの彼だった。
食事のあとは「一杯飲みに行かない?」と俊哉が誘ってきたので、ふたつ返事で了承した。レストランでも飲んではいたのだが、ミニコンサートに夢中になってしまったのでもうちょっと飲みたい気分だった。オールインクルーシブとやらで、料金がかからないと聞いたのも気楽にオッケーできた要因だった。
「いったん部屋に戻って、温かい格好をしてから行くよ」
「え? 外に出るんですか?」
てっきりホテルのなかのバーに行くのだとばかり思っていた。
「せっかくだから、東京では絶対に体験できないような経験をしよう」
よくわからないが、部屋に戻った陽菜は厚手のセーターの上にダウンジャケットを羽織った。移動時間だけとはいえ北海道の夜は冷え込むだろうから、これくらい着た方がいいだろう。
「手袋はある?」
「はい」
ポケットから革の手袋を出してみせる。
「マフラーもした方がいいな」
俊哉は自分のしていたマフラーを外し、ぐるぐると陽菜の首に巻いた。
「あ……ありがとうございます」
マフラーからはかすかに俊哉の匂いがしてドキドキした。
完全防備でホテルから出る。息が白い。陽が落ちた北海道は、さすがの寒さだった。
「足元凍ってるから気を付けて」
俊哉が手を握ってきた。手袋越しに彼の体温が伝わってくる。
ぽつりぽつりとホテルが並んでいる街灯に照らされた歩道を、並んでゆっくりと歩く。他にも何組か同じ方向に歩いているひとたちがいる。そちらに店があるのだろう。
十分ほど歩いて道を曲がったところで、急に目の前が明るくなった。
「わぁ……!」
不思議な光景に、思わず声が出た。
真っ白い広場のなかに、平屋の一軒家ほどのサイズの氷でできたドームがいくつも並んでいる。その手前にはスケートリンクがあり、子供も大人もアイススケートを楽しんでいる。氷でできた滑り台もあった。
「冬だけ現れる氷の村だよ。行こう」
氷のドームは近づいてみるとそれぞれレストランやスイーツショップ、ブティックなどいろんな店だった。
そして俊哉が連れてきてくれたのは、氷でできたバーだった。
なかに入ると、風が入らないからか外よりは寒くない。
「いらっしゃいませ」
厚手の上着を着た、それでも陽菜たちよりはだいぶ薄着のバーテンダーがカウンターの向こうから微笑みかけてきた。
「すごい……!」
カウンターは継ぎ目のない分厚い氷でできている。バーテンダーの後ろにある世界各国のお酒を並べている棚も氷だ。
座ろうとすると、椅子まで氷だった。
「なににいたしましょう」
ずらりと並んだお酒を眺めて迷う。
こんなに寒いのにさらに冷たい飲み物を飲んだら、芯から震えあがってしまうのではないか。とはいえホットドリンクのメニューはなさそうだ。
「せっかくだから、氷っぽい色合いのカクテルにしようかな。陽菜はどうする?」
「私もカクテルにします。すみません、お任せしていいですか。ロングカクテルで少し甘めのがいいです」
カクテルには詳しくないので、バーテンダーの選択にゆだねた。
「俺はチャイナブルーで」
「かしこまりました」
バーテンダーがカクテルシェーカーに五種類の飲み物を入れ、見事な手つきでシャカシャカとシェイクする。
できあがった鮮やかなエメラルドグリーンのカクテルを注がれたのは、なんと氷でできたグラスだった。
「ガルフストリームでございます」
カクテルが陽菜の前にスッと出された。
「ありがとうございます。すごい、綺麗……」
南の海みたいな色合いをしているのに、氷のグラスに入れられてキンキンに冷やされているのがおもしろい。
うっとりと見とれているうちに、俊哉のカクテルもできあがった。こちらは澄んだ青色だ。
「乾杯しようか」
「はい」
持ち上げたグラスは分厚いだけあって重かった。さっそくグラスに口をつけると、唇がひんやりした。しかしアルコール度数はそれなりに高いようで、飲むとお腹のなかがホカホカしてくる。なんとも不思議な感覚だ。
「美味しい?」
「甘めでフルーティーで美味しいです。いくらでも飲めちゃいそう」
「飲んでいいよ、あとはもうホテルに戻って寝るだけだし」
寝る、という言葉を聞いて、まだ寝室を見ていなかったことを思い出した。
寝室はおそらくひとつだろう。それはしかたない。でもベッドまでひとつだったらどうしよう。とても眠れる気がしない。
隣にいる俊哉の横顔をちらりと見る。
「うん?」
氷のグラスを手に微笑んでいる俊哉には、寝るときのことを意識している気配が感じられない。
「……もう一杯頼んでいいですか」
「何杯でもどうぞ」
その言葉に甘えて、陽菜はバーが閉店する夜十時までキツめのカクテルをハイペースで飲んだ。全身がポカポカして、頭のなかがぼんやりしてくる。これでベッドがどんなでもすぐに眠れるだろう。
帰りがけに俊哉がカードで支払いをしているのを見て、ここは外部のお店だからオールインクルーシブは適用されないのだと思いいたる。
「あの……すみませんでした」
ホテルへと帰る道すがら、陽菜は俊哉に謝った。
「え、なにが?」
俊哉は本当になぜ謝られているのかわからないという顔をしている。
「あのお店はオールインクルーシブの範囲外ですよね。全然気にせずパカパカ飲んでしまいました」
俊哉はなんだそんなことかという顔をした。
「でも楽しかっただろ?」
「はい、とっても。あんなおもしろいバーがあるなんて知りませんでした。それに美味しかったです」
「ならよかった。俺も楽しかったし、こういうのは有意義な出費だから気にしなくていいんだよ」
「……はい。ごめんなさい」
「今度はなに」
俊哉が優しく手を繋いでくる。
「せっかくの旅行なのに、また貧乏くさいことを言ってしまいました」
結婚して二か月以上経つのに、いまだに独身時代の節約癖が抜けきっていない。
俊哉はお金持ちではあるが、浪費家ではない。彼が使うと判断して使ったお金に対してあれこれ言うのは間違っている、と頭ではわかっているのだ。どうしても節約したいなら、自分だけに関わるものに限るべきだ。
「無理に変わろうとしなくていい。陽菜は陽菜なんだから」
「でも」
「〝貧乏くさい〟って言葉はよくないかな。お金やものを大事にするのは陽菜の長所なんだから。なにもかも俺に合わせなくていいんだよ」
「……はい」
じんわりと嬉しさが湧いてくる。
俊哉は陽菜を否定しない。
だから、陽菜は価値観が全然違うはずの俊哉と一緒に暮らしていけている。
「戻ったら風呂に入ってすぐ寝よう。明日は朝食を食べたらすぐスキーに行くよ」
「でもスキーの道具をなにも持ってきてないですよね?」
「ホテルにレンタルの道具があるから大丈夫」
至れり尽くせりだ。
ホテルの部屋に戻ってからは、まず交互に入浴を済ませることにした。
陽菜は俊哉に先を譲り、ドキドキする胸を押さえて二階へ上った。
寝室にはダブルベッドがあった。
ただし、二台。
「……なんだ」
陽菜は拍子抜けした。
ふたりで旅行に行くということに特別な意味を感じていたのは陽菜だけだったようだ。男性と交際したことがない陽菜にとっては同じ部屋に泊まるというだけでも十分刺激的だが、俊哉にとってはたぶん違う。
きっとこの旅行も、俊哉が言うところの〝夫婦の真似事〟のひとつなのだろう。
ホッとしたような、がっかりしたような。
陽菜は複雑な気持ちを抱えて一階へ下りた。
カジュアルな服しか持ってきていないので、気取らない雰囲気がありがたい。スタッフもお客さんも陽気で、あちこちで笑い声が起こっている。
食べはじめて三十分ほど過ぎた頃、レストランの照明が一段暗くなり、辺りが静かになった。
「なにがはじまるんでしょう」
「今日のショーだよ。なんだろうね」
今日の、ということは、毎晩なにかしらの催しがあるということか。
グランドピアノにスポットライトが当たり、パーマのかかった髪を肩まで伸ばした男性がピアノの前の椅子に座った。
次に出てきたのは、紫色のカクテルドレスを着た三十代くらいの女性で、女の陽菜から見てもドキッとするくらい美人で脚が綺麗だった。
ピアノの音が鳴り、女性がひとつ微笑んでから歌いだす。古いジャズの名曲だ。深みのある優しい声が、曲名はわからなくとも聞いたことのある曲を次々と披露していく。陽菜は食事を摂る手を止めてうっとりと聞き入った。
三十分のミニコンサートが終わったときには、夢中になって手を叩いていた。
「いい歌だったね」
「素晴らしかったです」
興奮して俊哉の方を向き、笑いかける。
そこで、彼が頬杖をついていままで見たことがなかったような熱のこもった顔で陽菜のことを見ていることに気づいた。
「俊哉さん?」
もしかして、ずっと陽菜のことを見ていたのだろうか。
「喜んでくれてよかったよ。連れてきたかいがあった」
にこっと笑った俊哉は、いつもの彼だった。
食事のあとは「一杯飲みに行かない?」と俊哉が誘ってきたので、ふたつ返事で了承した。レストランでも飲んではいたのだが、ミニコンサートに夢中になってしまったのでもうちょっと飲みたい気分だった。オールインクルーシブとやらで、料金がかからないと聞いたのも気楽にオッケーできた要因だった。
「いったん部屋に戻って、温かい格好をしてから行くよ」
「え? 外に出るんですか?」
てっきりホテルのなかのバーに行くのだとばかり思っていた。
「せっかくだから、東京では絶対に体験できないような経験をしよう」
よくわからないが、部屋に戻った陽菜は厚手のセーターの上にダウンジャケットを羽織った。移動時間だけとはいえ北海道の夜は冷え込むだろうから、これくらい着た方がいいだろう。
「手袋はある?」
「はい」
ポケットから革の手袋を出してみせる。
「マフラーもした方がいいな」
俊哉は自分のしていたマフラーを外し、ぐるぐると陽菜の首に巻いた。
「あ……ありがとうございます」
マフラーからはかすかに俊哉の匂いがしてドキドキした。
完全防備でホテルから出る。息が白い。陽が落ちた北海道は、さすがの寒さだった。
「足元凍ってるから気を付けて」
俊哉が手を握ってきた。手袋越しに彼の体温が伝わってくる。
ぽつりぽつりとホテルが並んでいる街灯に照らされた歩道を、並んでゆっくりと歩く。他にも何組か同じ方向に歩いているひとたちがいる。そちらに店があるのだろう。
十分ほど歩いて道を曲がったところで、急に目の前が明るくなった。
「わぁ……!」
不思議な光景に、思わず声が出た。
真っ白い広場のなかに、平屋の一軒家ほどのサイズの氷でできたドームがいくつも並んでいる。その手前にはスケートリンクがあり、子供も大人もアイススケートを楽しんでいる。氷でできた滑り台もあった。
「冬だけ現れる氷の村だよ。行こう」
氷のドームは近づいてみるとそれぞれレストランやスイーツショップ、ブティックなどいろんな店だった。
そして俊哉が連れてきてくれたのは、氷でできたバーだった。
なかに入ると、風が入らないからか外よりは寒くない。
「いらっしゃいませ」
厚手の上着を着た、それでも陽菜たちよりはだいぶ薄着のバーテンダーがカウンターの向こうから微笑みかけてきた。
「すごい……!」
カウンターは継ぎ目のない分厚い氷でできている。バーテンダーの後ろにある世界各国のお酒を並べている棚も氷だ。
座ろうとすると、椅子まで氷だった。
「なににいたしましょう」
ずらりと並んだお酒を眺めて迷う。
こんなに寒いのにさらに冷たい飲み物を飲んだら、芯から震えあがってしまうのではないか。とはいえホットドリンクのメニューはなさそうだ。
「せっかくだから、氷っぽい色合いのカクテルにしようかな。陽菜はどうする?」
「私もカクテルにします。すみません、お任せしていいですか。ロングカクテルで少し甘めのがいいです」
カクテルには詳しくないので、バーテンダーの選択にゆだねた。
「俺はチャイナブルーで」
「かしこまりました」
バーテンダーがカクテルシェーカーに五種類の飲み物を入れ、見事な手つきでシャカシャカとシェイクする。
できあがった鮮やかなエメラルドグリーンのカクテルを注がれたのは、なんと氷でできたグラスだった。
「ガルフストリームでございます」
カクテルが陽菜の前にスッと出された。
「ありがとうございます。すごい、綺麗……」
南の海みたいな色合いをしているのに、氷のグラスに入れられてキンキンに冷やされているのがおもしろい。
うっとりと見とれているうちに、俊哉のカクテルもできあがった。こちらは澄んだ青色だ。
「乾杯しようか」
「はい」
持ち上げたグラスは分厚いだけあって重かった。さっそくグラスに口をつけると、唇がひんやりした。しかしアルコール度数はそれなりに高いようで、飲むとお腹のなかがホカホカしてくる。なんとも不思議な感覚だ。
「美味しい?」
「甘めでフルーティーで美味しいです。いくらでも飲めちゃいそう」
「飲んでいいよ、あとはもうホテルに戻って寝るだけだし」
寝る、という言葉を聞いて、まだ寝室を見ていなかったことを思い出した。
寝室はおそらくひとつだろう。それはしかたない。でもベッドまでひとつだったらどうしよう。とても眠れる気がしない。
隣にいる俊哉の横顔をちらりと見る。
「うん?」
氷のグラスを手に微笑んでいる俊哉には、寝るときのことを意識している気配が感じられない。
「……もう一杯頼んでいいですか」
「何杯でもどうぞ」
その言葉に甘えて、陽菜はバーが閉店する夜十時までキツめのカクテルをハイペースで飲んだ。全身がポカポカして、頭のなかがぼんやりしてくる。これでベッドがどんなでもすぐに眠れるだろう。
帰りがけに俊哉がカードで支払いをしているのを見て、ここは外部のお店だからオールインクルーシブは適用されないのだと思いいたる。
「あの……すみませんでした」
ホテルへと帰る道すがら、陽菜は俊哉に謝った。
「え、なにが?」
俊哉は本当になぜ謝られているのかわからないという顔をしている。
「あのお店はオールインクルーシブの範囲外ですよね。全然気にせずパカパカ飲んでしまいました」
俊哉はなんだそんなことかという顔をした。
「でも楽しかっただろ?」
「はい、とっても。あんなおもしろいバーがあるなんて知りませんでした。それに美味しかったです」
「ならよかった。俺も楽しかったし、こういうのは有意義な出費だから気にしなくていいんだよ」
「……はい。ごめんなさい」
「今度はなに」
俊哉が優しく手を繋いでくる。
「せっかくの旅行なのに、また貧乏くさいことを言ってしまいました」
結婚して二か月以上経つのに、いまだに独身時代の節約癖が抜けきっていない。
俊哉はお金持ちではあるが、浪費家ではない。彼が使うと判断して使ったお金に対してあれこれ言うのは間違っている、と頭ではわかっているのだ。どうしても節約したいなら、自分だけに関わるものに限るべきだ。
「無理に変わろうとしなくていい。陽菜は陽菜なんだから」
「でも」
「〝貧乏くさい〟って言葉はよくないかな。お金やものを大事にするのは陽菜の長所なんだから。なにもかも俺に合わせなくていいんだよ」
「……はい」
じんわりと嬉しさが湧いてくる。
俊哉は陽菜を否定しない。
だから、陽菜は価値観が全然違うはずの俊哉と一緒に暮らしていけている。
「戻ったら風呂に入ってすぐ寝よう。明日は朝食を食べたらすぐスキーに行くよ」
「でもスキーの道具をなにも持ってきてないですよね?」
「ホテルにレンタルの道具があるから大丈夫」
至れり尽くせりだ。
ホテルの部屋に戻ってからは、まず交互に入浴を済ませることにした。
陽菜は俊哉に先を譲り、ドキドキする胸を押さえて二階へ上った。
寝室にはダブルベッドがあった。
ただし、二台。
「……なんだ」
陽菜は拍子抜けした。
ふたりで旅行に行くということに特別な意味を感じていたのは陽菜だけだったようだ。男性と交際したことがない陽菜にとっては同じ部屋に泊まるというだけでも十分刺激的だが、俊哉にとってはたぶん違う。
きっとこの旅行も、俊哉が言うところの〝夫婦の真似事〟のひとつなのだろう。
ホッとしたような、がっかりしたような。
陽菜は複雑な気持ちを抱えて一階へ下りた。