愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる
 翌日は綺麗に晴れ、陽菜は雪原に太陽光が当たるとすごく眩しいということを初めて知った。なるほど、みんなゴーグルをするわけだ。
 このリゾートでは初心者向けから上級者向けまで多彩なスキー教室が開催されているので、午前中だけでもそういうところに入った方が俊哉の手をあまり煩わせずに済むのではと思ったのだが、笑顔で却下された。
 スキー道具は、板から帽子まですべてホテルでレンタルした。すっかり着替えてからホテルの送迎バスで五分ほどのところにあるゲレンデに向かう。
 下から見上げたスキー場は、ホテルの窓から見ていたときよりずっと広く見えた。ひとの姿はぼちぼちあるが、広いので混みあっているという様子はまったくない。
 ゴツくて重いスキーブーツは歩きづらく、スキーを担いでちょっとゲレンデを歩いただけで息が上がる。こんなありさまで本当に滑れるようになるのだろうか。顔には出さないが、少々げんなりしてきた。
「ここにいったん置いて」
 俊哉がロッジの横にあるスキー立てにスキーをかけた。グレーとブルーのスキーウエアを着てゴーグルをつけた俊哉はいつもと雰囲気が全然違う。厚いウエアを着ているのにスタイルの良さが際立つ。
 ロッジから出てきた女性陣がチラチラと俊哉を見ているのを感じながら、陽菜も真似してスキーを置く。
「じゃ、まずはストレッチから。手首ぐるぐる」
 厚手のスキーグローブをはめたまま、両手を組んでぐるぐると回す。
「次は足首。足首が一番痛めやすいから、しっかりと」
「はい」
 足首は片方ずつ、つま先を地面に立ててぐるぐると回す。スキーブーツを履いたままなのでやりづらい。
 軽いストレッチが終わると、俊哉は陽菜のスキー板をゲレンデに置いた。
「つま先を金具に引っかけるようにしてから、少し力を入れてかかとを落とす」
 ガチャッと音がしてブーツと板がくっついた。ちゃんとはまっているかどうか、俊哉がしゃがんで確認してくれる。
 もう片方の板も装着してストックを持つと、一気にそれらしくなったように思えて陽菜はその気になった。
「なんだか滑れる気がしてきました」
「それはいい。でもまずは歩くところから練習しよう」
「はい」
 手早くスキーを履いた俊哉と並んで、前に進もうとする。
「あ、あれ?」
 足を前に出しても、するりと滑って元の位置に戻ってしまう。
「ストックを使って体を前に持っていって」
「は、はい」
 言われた通りにするとたしかに歩けたが、今度は板の前方が重なってしまい、にっちもさっちもいかなくなる。
「焦らなくていいよ。上になってる足を持ち上げて……そうそう。まずは板の長さに慣れよう」
 ゲレンデの下を横切るようにして、俊哉と並んで歩く。
 板を平行にして平らな雪原を歩いているだけなのに、どんどん体が暑くなってくる。
「それじゃ、次は斜面を上ってみよう」
 ゲレンデの端の方まできて、俊哉は一度止まった。
 陽菜は俊哉のすぐ横に立つ。
「斜面の上側の足を一歩上げて、下側の足をその下に持ってくる。この繰り返し」
 俊哉は簡単そうに言ったし難なく実践しているが、坂と垂直に板を置いたはずが斜めになっていて滑ってしまったり、勢い余って下の板が上の板とぶつかってしまったりして難しい。
 それでも無心になって続けているうちに、だんだん上手くできるようになっていく。
「けっこう上ったよ。下を見てごらん」
 足元ばかり見ていた顔を上げると、上りはじめた辺りから二十メートルくらいは来たようだった。
「……俊哉さん」
「うん?」
「上ったら、下りないといけないですよね?」
「そうだね」
 下から見たときはなだらかな坂だと思ったのだが、こうして見下ろすと急な滑り台のようだ。
「ゆっくり下りれば大丈夫だよ」
「ゆっくり」
「ゆっくり。まずは、スキー板をハの字にしてみよう。先端をこぶしひとつ分くらい開けて」
 言われたとおりに斜面の上側の脚を広げてみると、スキーが勝手に前に進みだした。
「俊哉さんっ!」
「大丈夫、大丈夫」
 全然大丈夫じゃないと言おうとしたら、背中にふわっと俊哉の気配がした。
「え?」
「そのまま前を見てて」
 俊哉の声が耳のすぐ後ろから聞こえた。その近さに驚いて腰が引け、転びそうになったのをさりげなく支えられる。
 陽菜のスキーのすぐ外側に俊哉のスキーがある。まるで俊哉に包み込まれて滑っているようで、ドキドキしてしまう。夫婦とはいえ愛情はない割り切った関係で、体に触れられたのはプロポーズされたときと、昨晩バーに行ったとき道が凍っていたから手を握られたくらいだ。
 それが急にこんなことをされては、どうしていいかわからなくなる。
「はい、到着」
 するりと俊哉が陽菜の背中から離れた。
 上るのは時間がかかったのに下りるのはあっという間だ。
 改めて初心者コースを見てみると、いまの俊哉と陽菜と同じ滑り方をしている二人組が何組かいた。みんな親子だ。なるほど、初心者に滑り方を教えるときにはよく使われる手法らしい。俊哉はただ滑り方を教えてくれただけなのに変に意識してしまったと、恥ずかしくなる。
 それからはリフトの乗り方を教えてもらい、陽菜は午前中のうちに時間を掛ければなんとかひとりで初心者コースを下りられるようになった。
「すごいじゃないか、もう中級者コースでもいけそうだ」
 初心者コースのリフトを降りたところからさらにリフトを乗り継いでいくのが中級者コースだ。当然だが、斜面の角度が初心者コースよりだいぶきつい。
「それはさすがに怖いです。でも俊哉さんはどうぞ行ってきてください」
 おそらく上級者である俊哉をいつまでも初心者コースに付き合わせているのは悪いと思って言った。
「いや、いいよ」
「私が思い切り滑っている俊哉さんを見てみたいんです」
 正直に言うと、俊哉は珍しく照れたような顔をした。
「……そう? じゃ、一本だけ滑らせてもらおうかな」
「私はここから見てますね。上に着いたら、手を振ってください」
「わかった」
 いそいそと俊哉が中級者コースのリフト乗り場へ滑っていく。
 陽菜は初心者コースを滑りに来たひとの邪魔にならないよう、コースの端に行った。
 しばらくして、小さくてよく見えないがたぶん俊哉らしきひとが斜面の上から大きく手を振ってきた。陽菜も大きく振り返す。
 俊哉がさっそく滑りだす。
「わ……」
 美しいフォームに思わず声が出た。離れたところからだと、まるで一枚の板にのっているように見えるくらいスキー板が揃っている。当たり前だが、スキー板を大きなハの字型にしてターンしていた陽菜とはスピードがまるで違う。
 俊哉に見とれているうちに、陽菜は無意識でゲレンデの中心部に向けて少し前進していた。そして注意が俊哉に向いていたため、弾丸のように滑り降りてきた塊に気づくのが遅れた。
「きゃっ!」
 ガシャンと音がして、膝を抱えるような低い姿勢でぶっ飛んできた人物が、陽菜のスキー板の上を通過していった。
 直接ぶつかりはしなかったものの陽菜はバランスを大きく崩し、坂を見上げる向きになってしまった。
「あっ……」
 スキーが勝手に後ろ向きに滑り出した。慌ててストックを立てたが、勢いは増すばかりで全然止まらない。
 ──怖い。
 どうすることもできず、身を縮めてぎゅっと目をつぶったときだった。
「陽菜っ!」
 大きな声で名前を呼ばれ、たくましい体に強く抱き締められる。
 スキーが止まった。目を開けると切羽詰まったような俊哉の顔がすぐ近くにあった。
「俊哉さん……」
 陽菜はホッとして体の力を抜いたが、俊哉がしっかり抱き締めてくれているのでもうスキーが勝手に滑ることはなかった。
「怪我はっ? どこか痛いところはないか?」
「大丈夫です。びっくりはしましたが。さっきのはなんだったんでしょう」
「たぶん、地元の小学生。彼らは毎日のように滑りにくるから上手いんだけどスピード狂も多くて。さっきの子みたいにほとんど直滑降でふっ飛んでくるから危ないんだ」
 俊哉はまだ深刻な顔をしている。
「あの……」
 近くを滑り下りていくひとたちが、いったいなにごとだろうという感じでこちらを見てくる。そろそろ人目が気になるので、離してもらいたいと思ったのだが。
「危ない目に会わせてしまって、ごめん。やっぱり陽菜を置いていくんじゃなかった」
 俊哉の陽菜を抱く力が強まった。
 腕が小さく震えている。俊哉も、怖かったのだ。
「私は置いていってもらってよかったですよ」
 陽菜は両腕をそっと俊哉の背中に回した。自分が傷つくのをこんなに恐れてくれている彼を見ていたら、たまらない気持ちになった。
「え?」
「滑り降りてくる俊哉さん、すっごくかっこよかったです。いいもの見れました」
「……ありがとう」
 かっこいいなんて言われ慣れているだろうにまるで初めて言われたかのようにはにかんだ俊哉と、陽菜はしばらく抱き合ったままでいた。
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