愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる
 その晩は前日と同じレストランで食事したあと、部屋に戻って軽く飲むことにした。
 入浴を済ませ、ホテルに備え付けのお揃いのパジャマを着る。窓辺のソファに座り、部屋のミニバーコーナーにあったクラフトビールで乾杯した。窓の外には誰もいないゲレンデが見える。
「こんな素敵なところに連れてきてくださって、ありがとうございました」
 陽菜は俊哉に改めてお礼を言った。
 明日は午前十一時にはチェックアウトすることになっている。二泊三日の旅行は、楽しくてあっという間だった。
「こちらこそ、一緒に来てくれてありがとう。次はもうちょっと長く休みを取って、どこか南の方に行こうか」
 俊哉の言葉に、次があるんだと思う。
 気まぐれで誘ってくれた一回きりの旅行ではないらしい。
「俺はきみを、ちゃんと大事にできているだろうか」
 早くも二缶めに手を出した俊哉の口からこぼれ出た言葉は、いつも飄々としている彼の言葉とは思えないくらい自信なさげに聞こえた。
「これ以上ないくらいに大事にしてもらっていると思ってます」
 本音だった。
 愛情を抱いて結婚したわけじゃないはずなのに、どうしてこんなに優しくしてくれるんだろうと、毎日不思議に思っている。
 俊哉が缶をテーブルに置き、体ごと陽菜の方を向いてくる。
「いつも美味しいご飯をありがとう」
「でも私が作るものなんて、簡単なものばかりで」
「うちは母が家庭的なひとではなかったから、家政婦さんが作った食事をいつもひとりで食べていたんだ。それが当たり前だと思っていたし、特に不満ではなかったんだけど……きみとたわいのないことを話しながら手料理を食べるのが日常になって、こんなに嬉しいことなんだと初めて知った。本気で感謝している」
 真摯に向き合ってくれているのがわかり、胸の内が温かくなる。
「私こそ、本当に感謝しています。いままで見たことのなかった景色や価値観を見せてもらったり、勉強時間を与えてもらったり……俊哉さんに結婚してもらってから、私毎日楽しいんです。自分がこんなに肩の力を抜いて生きられるんだって初めて知りました」
「……今日陽菜がスキー場でぶつかられたのを見たときは、心臓が止まるかと思った」
「ぶつかってません、大丈夫です。いまお風呂に入ったとき一応鏡で確認しましたけど、どこにも痣はできていませんでした」
「よかった。もし陽菜に傷跡でも残ったら、俺は自分を一生許せないところだった」
「そんな……おおげさです」
 どういう顔をしていいのかわからない。
 陽菜は両手で缶ビールを持ち、うつむいた。
 俊哉も黙ってしまったので、ふたりの間に沈黙が漂う。嫌な沈黙ではなかったが、くすぐったくて、陽菜は落ち着かなくなる。
 ぐいっと缶ビールをあおってふと横を見ると、俊哉ともろに目が合った。
「あ……」
 ずっと自分のことを見ていたんだろうか。
 こんな焦がれるような目で。
 陽菜も俊哉から目が離せなくなる。
 そして吸い寄せられるようにふたりの顔が近づいていき、唇と唇が重なった。
 温かくて柔らかいその感触に、なぜだか泣きたくなる。
 どのくらいそうしていたか、俊哉が我に返ったようにパッと顔を離した。
「……ごめん」
 小さな声で謝られたことに、チクリと胸が痛む。
「そろそろ寝よう。明日はまた長距離移動だ」
 俊哉が微妙になった空気を変えるように明るい声を出した。
 歯磨きを済ませ、二階のふたつあるベッドにそれぞれ横になる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 布団のなかに潜り込み、壁の方を向く。
 目をつぶってみたが、初めてのスキーで体は疲れているはずなのに眠気が全然湧いてこない。どうしてもすぐ隣で横になっている俊哉の方に意識がいってしまう。
 俊哉は不自然なくらい静かだ。音を立てないよう細心の注意を払ってちらっと見てみたが、窓側に完全に体を向けて寝ていて、どんな顔をしているのかはわからなかった。
 陽菜は布団のなかでそっと自分の唇に触れた。
 さっきのキスは、いったいなんだったんだろう。
 けっして無理やりされたわけではない。
 まるでそうするのが当たり前であるかのような自然な流れだった。
 愛情のない夫婦のはずなのに、なぜ。
 考えても納得いく答えは出てこず、陽菜はいつのまにか眠りに落ちていた。
< 22 / 35 >

この作品をシェア

pagetop