愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる
「あの……」
ふたり同時に口を開いて、また閉じる。
「お先にどうぞ」
「いえいえ、どうぞ」
譲り合っているうちにおかしくなり、「フフッ」と笑ってしまう。俊哉も笑っている。
「じゃあ俺から。よかったら、どこかで飲み直さない? お腹はもういっぱいだろうから、バーでどうだろう」
今日初めて会った男性とふたりきりでお酒を飲むなんて、と思わなくもない。それに今日一日のためにこれ以上出費を重ねるのは厳しいのだが、俊哉ともう少し一緒にいたい気持ちが勝った。
「お供します」
「やった」
俊哉は小さくガッツポーズをした。素直に喜んでくれたのが嬉しくて、陽菜も笑顔になる。
「ここから車で十分くらいのところに、俺がたまに行くバーがあるんだ。そこにしよう」
話しながら歩きだし、俊哉はホテルの玄関前に停まっていたタクシーに片手を上げた。流れるように後部座席に乗り込んだ彼に続いて、陽菜も車に乗る。
俊哉が言ったとおり十分ほどで着いたのは、外資系の五つ星ホテルだった。
「えっ……」
そびえ立つ立派なホテルを見上げて言葉を失う。
「ここの最上階」
なんてことないように言われ、冷や汗をかく。
これは、もしかして、というか絶対、ものすごくお高いのでは。
「あ、タクシー代……半分出します」
陽菜は慌てて鞄から財布を取り出した。俊哉があまりにスマートに払ってしまっていたから、出していないことに気づくのが遅れた。
「え? いやいや、いいよ。俺が誘ったんだから」
「でも……」
「ほんとに気にしないで」
「……ありがとうございます」
ホテルの前でお金を押し付け合うのもみっともないかと思い、引くことにする。
俊哉のエスコートでエレベーターに乗り、五十二階で降りる。
天井の高いモダンな雰囲気のバーに着くと、窓際のソファ席に案内された。窓の外には見事な夜景が広がっていて、東京タワーがよく見えた。
たまに来ていると言っていただけあって、俊哉は脚を組んでくつろいでいる。対照的に、陽菜はがちがちに緊張している。アルコールには強いし、友人や職場のひとたちと飲みに行くことはたまにはあるけれど、そんなとき行くのは居酒屋ばかりだ。こんな大人な雰囲気の店に来たことなど、一度もなかった。
こういうところではいったいなにを飲めばいいのか、まったくわからない。居酒屋なら「とりあえず生」でいいのに。
ひそかに焦っていると、若いバーテンダーが注文を取りに来た。
「マッカランのダブルカスク十二年をストレートで」
「同じのをお願いします」
反射的に言ってしまってから、少し後悔した。
名前くらいは聞いたことがあるが、たぶんウイスキーだ。嫌いではないが、特に好きでもない。無難に有名なカクテルでも頼めばよかった。
「スコッチ、好きなんだ?」
オリーブとナッツも頼み、バーテンダーが去ったあと、俊哉は少し意外そうな顔をした。
「お酒ならだいたいなんでも飲みます。でも全然詳しくはないです。あの……〝ダブルカスク〟って、なんですか?」
「カスクは樽という意味だから、二種類の樽ってこと。もうちょっと具体的に言うと、ヨーロピアンオークの樽で熟成させた原酒とアメリカンオークの樽で熟成させた原酒をブレンドしたものだよ。両方のいいところを併せ持っていて、俺はすごく好きなんだ」
そう言われると飲むのが楽しみになってきた。単純なものだ。
さほど待たずに、小さめのまるっこいグラスでウイスキーが運ばれてきた。
さっそくグラスを持ち上げ、まずは香りを味わってみる。
「いい香り」
「蜂蜜やバニラの香り、なんて表現されるらしいよ」
そこまで嗅覚が敏感ではないので正直よくわからないが、いままで飲んだことのある安いウイスキーとは全然違うということだけはわかる。
グラスを傾け、ひと口飲む。
芳醇な味わいが口のなかに広がり、驚いた。ウイスキーなんて苦いとしか思ったことがなかったのに。
「美味しいです」
本当にそう思った。
「よかった」
俊哉がほほ笑む。グラスを持つ姿が、様になっている。
いい夜だ。陽菜はこの一杯でいったいいくらするのか考えそうになるのを押さえ、夢みたいな時間を心ゆくまで味わうことにした。
「そういえばまだ、お互い名前も知らなかったね。俺は渡會。渡會俊哉。不動産会社のサラリーマンです」
「野崎陽菜です。図書館で司書をしています」
野崎陽菜さん、と俊哉が確かめるようにつぶやく。
「野崎さんは新婦さんのお友達だよね?」
「そうです、大学が一緒で。渡會さんは新郎のお友達ですよね?」
「うん。幼稚舎から大学まで、ずっと一緒だったんだ」
ということは俊哉も裕福な家庭に生まれたエリートなのだろう。新郎は有名私立大を卒業して誰もが知る大企業に勤めているとさっき披露宴で司会のひとが話していた。だから新婦側の招待客たちは二次会で積極的に新郎側の関係者と交流を図ろうとしていた。
「いまさらだけど、連れ出しちゃって本当に大丈夫だった? もっとお友達と話したりしたかったんじゃ」
本当にいまさらで少し笑ってしまう。
「全然大丈夫です。友人たちとは披露宴で十分お喋りできましたし、新婦とはそこまで仲がよかったわけでもないし」
「あ、そうなんだ」
「正直、人数合わせで呼ばれた感がありありで……まあでも、彼女の幸せそうな姿を見られましたし、出席して悪くはなかったです」
白亜のチャペルでウエディングドレスに身を包んでいた新婦は綺麗だったし、披露宴は久しぶりに会った友人たちと話しながら美味しい料理を食べられて楽しかった。
ただ二次会まで行くことはなかったなと改めて思う。出費が痛かったし、立食は疲れる。
「……きみは、結婚イコール幸せだと思うタイプ?」
「そうは思いません」
陽菜は即答した。
「でも、今日の新郎さんみたいな経済的に余裕のありそうなひととの結婚なら、ニアリーイコールハッピーエンドじゃないですか?」
へえ、と俊哉は軽く首を傾げた。
「そんなにお金って大事かなあ」
本当によくわからないという顔をしている。
ああ、このひとは生まれてから一度も本気でお金に困ったり、お金がなくてみじめな思いをしたりしたことがないんだなと陽菜は思う。それが悪いとは思わない。そんな苦労はしないにこしたことはない。
「お金がすべてではないでしょうけど。世の中の夫婦の揉め事の七割くらいはお金があれば解決するって、どこかで見た気がしますし、私もそう思います」
陽菜はウイスキーの入ったグラスをぐいっとあおる。美味しくてするする飲めてしまう。
「ずいぶん現実主義なんだね」
俊哉が興味をひかれたような顔をする。
「親が、金銭問題で離婚しているので」
もうひと口ウイスキーを口にする。頭のなかがとろんとしてきた。飲みやすいとはいえアルコール度数は高いので、さすがに少し酔いが回ってきたようだ。
「それは……大変だったね」
気遣われているのを感じるが、陽菜にとってはもう十年以上前のことなのでどうということもない。
「父は下町の町工場の二代目で、母と結婚した当初はけっこう羽振りがよくて。夫婦仲はよかったですし、すぐ生まれてきた私にもなんでも買ってくれました」
しかし父に商才はなかったようで、事業はだんだんと傾きはじめた。それでも贅沢するクセは抜けず、ギャンブルでお金を取り戻そうとしてずぶずぶと駄目になっていき、母は父を見限って家を出た。陽菜が十歳のときだった。
「私が大人になるまで、父は養育費を一銭も出しませんでした。そして母は、まだ子供だった私にお金がなくてどんなにみじめか、毎日のように愚痴をこぼしました」
陽菜はまたひと口、ウイスキーを飲んだ。もういくらも残っていない。
「奨学金とアルバイトでなんとか大学を卒業して司書として……非常勤ですけど就職して少しした頃、離婚して以来はじめて父から会いたいと言われて。そのときはまだほんの少しだけ親に期待する気持ちが残っていたので、ドキドキしながら会いにいきました」
「うん」
俊哉がじっとこちらを見ている。穏やかな目だった。
見つめ返す気にはなれず、陽菜は東京タワーを眺めながら話し続ける。
「久しぶり、とか大きくなったな、とか通り一遍のことを話したあと……父は私に小遣いをせびってきました。笑っちゃいますよね、養育費も払わなかったくせに」
ハハッと乾いた笑いが出た。
父にはそのとき、財布に入っていた一万円札を一枚渡した。これしかないのかと不満そうな顔をされたのを、はっきり覚えている。
「それから、ひとになにかを期待するのをやめました。期待しなければ絶望することもないので」
「それは……ちょっと、寂しい考え方なように思えるけど」
「私はひとに振り回されず、心穏やかに生きていきたいんです。そのためにはもっと安定した職を得たいんですけどね」
思わずため息が出た。
「いまは非常勤だって言ってたね?」
陽菜は頷いた。
またグラスを傾けて残りのウイスキーを飲む。フワフワした気分だ。初対面のひとに自分の話をこんなにするなんて信じられない。心地よい酔いと宝石箱をひっくり返したみたいな夜景と穏やかな声の俊哉の相槌のせいで、口が軽くなっているのがわかる。
「新卒のとき、公務員試験に落ちてしまって」
図書館司書の正職員は、狭き門だ。自治体によっては募集自体がない年もあるし、あっても二、三人の枠に何十人も応募が殺到したりする。
「いまはひとり暮らしをしているんですけど、司書のお給料だけではやっていけなくて、夜ファミレスでアルバイトもしてます。それでギリギリ。おかげで公務員試験に再チャレンジしたいし、大学院で図書館情報学の勉強もしてみたいのに、そんな時間もありません。こんな悩みだってお金があれば解決しますよね」
「たしかに」
俊哉がうんうんと頷く。
それを見て、陽菜はハッと我に返った。
「……すみません」
「え、なにが?」
俊哉はなぜ突然謝られたのか、本当にわからないという顔をしている。
「今日初めて会ったひとに、しかもおめでたい結婚式のあとに、こんなつまらない愚痴を聞かせてしまって」
「全然つまらなくなんてないよ。すごく頑張ってるんだなと思って聞いていた」
「ありがとうございます」
やっぱり優しいひとだ。自分の住んでいる世界と全然違う陽菜の境遇が興味深かったのかもしれないが。
「ところで……」
俊哉が軽く言い淀んだあと、組んでいた脚を下ろし、じっと陽菜の目を見てきた。
「二次会で出会いを求めて群れていた招待客たちから距離を置いていたけど、きみは結婚に興味がないタイプ?」
「興味がないというか、夢を持てないところはありますね」
「それはご両親のことがあったから?」
陽菜は頷いた。
「どうしてもお金がなくなれば愛情もなくなる、儚い関係だと思ってしまいます。もちろん世の中そんな夫婦ばかりじゃないんでしょうけど」
俊哉はどうなのか聞き返そうとして、やめた。彼は三日前に婚約者に逃げられたと言っていた。無神経な質問すぎるし、婚約者がいた時点で結婚に強い関心があるに決まっている。
これだけ優しくて容姿に優れ、ホテルの最上階のバーを普段使いできるひとだ。婚約者も、そして今後彼が選ぶであろう女性も、きっと育ちのいい素敵なお嬢様なのだろう。
胸のなかがもやもやしてきたのを無視する。
自分は二次会会場でたまたま居合わせただけの女だ。俊哉にふさわしくないことなんてわかりきっている。
陽菜は腕時計を見た。時刻は午後十一時が迫っている。楽しい時間はあっという間だ。
名残惜しいが終電の時間を考えると、そろそろ店を出た方がいい。
「私、そろそろ失礼します」
「おっと、もうこんな時間か。遅くまで付き合ってくれてありがとう。ちょっと待って」
俊哉がささっとスマートフォンを操作する。
タクシーの配車アプリだろうか。
「あの、私電車で帰ります」
「送るよ。その足だと、電車はつらいでしょ」
「……すみません」
どうやら靴擦れしていることに気づかれているらしい。恥ずかしいのと申し訳ないのとで、陽菜は小さくなった。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
立ち上がった俊哉のあとについてバーの出入り口に向かう。俊哉がそのまま店から出ようとするものだから、慌てて呼び止めた。
「あの、お会計は」
「もう払ったから大丈夫」
いつのまに。さっきスマートフォンを触っていたときだろうか。
しかし自分の愚痴を聞かせるだけ聞かせて奢ってもらうのは、さすがに悪い。
「自分の分は出します」
「いいよ、俺が誘ったんだし」
「……すみません」
こんな大人っぽいバーの店先でお金を押し付けるのもと思い、引くことにする。その代わり、タクシー代は払わせてもらおうと決意したのだが。
「……え?」
ホテルの玄関に横づけされていた車の上に行灯はなく、タクシーではなかった。
高そうな黒塗りのセダンだ。運転席の横には、定年を過ぎたような年頃の男性が立っていた
「どうぞ」
うやうやしく頭を下げて、男性が後ろのドアを開いた。
「さ、乗って」
先に後部座席に乗り込んだ俊哉が手招きしてくる。
陽菜は戸惑いながら彼の隣に座った。
俊哉はたしか、不動産会社のサラリーマンだと言っていたが、普通のサラリーマンが運転手つきの車なんて持っているものだろうか。もうなにがなんだかわからない。
「住所は?」
「あ、えっと」
陽菜が住所を口にすると、車はスーッと走りだした。
車のなかではほとんど会話をしなかった。
俊哉は窓の外に目をやり、ずっと考え込むような顔をしていた。
二十分ほど走り、陽菜の住むアパートの前に着く。
「今日はあの……本当にありがとうございました」
「こちらこそ、付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ」
車のなかから俊哉が小さく手を振ってきた。
陽菜は彼の乗った車が見えなくなるまで見送った。
そのあとで連絡先を聞かれなかったなと思ったが、がっかりはしなかった。
素敵なバーで俊哉と過ごした時間は、夢みたいだった。それだけで十分だ。
ふたり同時に口を開いて、また閉じる。
「お先にどうぞ」
「いえいえ、どうぞ」
譲り合っているうちにおかしくなり、「フフッ」と笑ってしまう。俊哉も笑っている。
「じゃあ俺から。よかったら、どこかで飲み直さない? お腹はもういっぱいだろうから、バーでどうだろう」
今日初めて会った男性とふたりきりでお酒を飲むなんて、と思わなくもない。それに今日一日のためにこれ以上出費を重ねるのは厳しいのだが、俊哉ともう少し一緒にいたい気持ちが勝った。
「お供します」
「やった」
俊哉は小さくガッツポーズをした。素直に喜んでくれたのが嬉しくて、陽菜も笑顔になる。
「ここから車で十分くらいのところに、俺がたまに行くバーがあるんだ。そこにしよう」
話しながら歩きだし、俊哉はホテルの玄関前に停まっていたタクシーに片手を上げた。流れるように後部座席に乗り込んだ彼に続いて、陽菜も車に乗る。
俊哉が言ったとおり十分ほどで着いたのは、外資系の五つ星ホテルだった。
「えっ……」
そびえ立つ立派なホテルを見上げて言葉を失う。
「ここの最上階」
なんてことないように言われ、冷や汗をかく。
これは、もしかして、というか絶対、ものすごくお高いのでは。
「あ、タクシー代……半分出します」
陽菜は慌てて鞄から財布を取り出した。俊哉があまりにスマートに払ってしまっていたから、出していないことに気づくのが遅れた。
「え? いやいや、いいよ。俺が誘ったんだから」
「でも……」
「ほんとに気にしないで」
「……ありがとうございます」
ホテルの前でお金を押し付け合うのもみっともないかと思い、引くことにする。
俊哉のエスコートでエレベーターに乗り、五十二階で降りる。
天井の高いモダンな雰囲気のバーに着くと、窓際のソファ席に案内された。窓の外には見事な夜景が広がっていて、東京タワーがよく見えた。
たまに来ていると言っていただけあって、俊哉は脚を組んでくつろいでいる。対照的に、陽菜はがちがちに緊張している。アルコールには強いし、友人や職場のひとたちと飲みに行くことはたまにはあるけれど、そんなとき行くのは居酒屋ばかりだ。こんな大人な雰囲気の店に来たことなど、一度もなかった。
こういうところではいったいなにを飲めばいいのか、まったくわからない。居酒屋なら「とりあえず生」でいいのに。
ひそかに焦っていると、若いバーテンダーが注文を取りに来た。
「マッカランのダブルカスク十二年をストレートで」
「同じのをお願いします」
反射的に言ってしまってから、少し後悔した。
名前くらいは聞いたことがあるが、たぶんウイスキーだ。嫌いではないが、特に好きでもない。無難に有名なカクテルでも頼めばよかった。
「スコッチ、好きなんだ?」
オリーブとナッツも頼み、バーテンダーが去ったあと、俊哉は少し意外そうな顔をした。
「お酒ならだいたいなんでも飲みます。でも全然詳しくはないです。あの……〝ダブルカスク〟って、なんですか?」
「カスクは樽という意味だから、二種類の樽ってこと。もうちょっと具体的に言うと、ヨーロピアンオークの樽で熟成させた原酒とアメリカンオークの樽で熟成させた原酒をブレンドしたものだよ。両方のいいところを併せ持っていて、俺はすごく好きなんだ」
そう言われると飲むのが楽しみになってきた。単純なものだ。
さほど待たずに、小さめのまるっこいグラスでウイスキーが運ばれてきた。
さっそくグラスを持ち上げ、まずは香りを味わってみる。
「いい香り」
「蜂蜜やバニラの香り、なんて表現されるらしいよ」
そこまで嗅覚が敏感ではないので正直よくわからないが、いままで飲んだことのある安いウイスキーとは全然違うということだけはわかる。
グラスを傾け、ひと口飲む。
芳醇な味わいが口のなかに広がり、驚いた。ウイスキーなんて苦いとしか思ったことがなかったのに。
「美味しいです」
本当にそう思った。
「よかった」
俊哉がほほ笑む。グラスを持つ姿が、様になっている。
いい夜だ。陽菜はこの一杯でいったいいくらするのか考えそうになるのを押さえ、夢みたいな時間を心ゆくまで味わうことにした。
「そういえばまだ、お互い名前も知らなかったね。俺は渡會。渡會俊哉。不動産会社のサラリーマンです」
「野崎陽菜です。図書館で司書をしています」
野崎陽菜さん、と俊哉が確かめるようにつぶやく。
「野崎さんは新婦さんのお友達だよね?」
「そうです、大学が一緒で。渡會さんは新郎のお友達ですよね?」
「うん。幼稚舎から大学まで、ずっと一緒だったんだ」
ということは俊哉も裕福な家庭に生まれたエリートなのだろう。新郎は有名私立大を卒業して誰もが知る大企業に勤めているとさっき披露宴で司会のひとが話していた。だから新婦側の招待客たちは二次会で積極的に新郎側の関係者と交流を図ろうとしていた。
「いまさらだけど、連れ出しちゃって本当に大丈夫だった? もっとお友達と話したりしたかったんじゃ」
本当にいまさらで少し笑ってしまう。
「全然大丈夫です。友人たちとは披露宴で十分お喋りできましたし、新婦とはそこまで仲がよかったわけでもないし」
「あ、そうなんだ」
「正直、人数合わせで呼ばれた感がありありで……まあでも、彼女の幸せそうな姿を見られましたし、出席して悪くはなかったです」
白亜のチャペルでウエディングドレスに身を包んでいた新婦は綺麗だったし、披露宴は久しぶりに会った友人たちと話しながら美味しい料理を食べられて楽しかった。
ただ二次会まで行くことはなかったなと改めて思う。出費が痛かったし、立食は疲れる。
「……きみは、結婚イコール幸せだと思うタイプ?」
「そうは思いません」
陽菜は即答した。
「でも、今日の新郎さんみたいな経済的に余裕のありそうなひととの結婚なら、ニアリーイコールハッピーエンドじゃないですか?」
へえ、と俊哉は軽く首を傾げた。
「そんなにお金って大事かなあ」
本当によくわからないという顔をしている。
ああ、このひとは生まれてから一度も本気でお金に困ったり、お金がなくてみじめな思いをしたりしたことがないんだなと陽菜は思う。それが悪いとは思わない。そんな苦労はしないにこしたことはない。
「お金がすべてではないでしょうけど。世の中の夫婦の揉め事の七割くらいはお金があれば解決するって、どこかで見た気がしますし、私もそう思います」
陽菜はウイスキーの入ったグラスをぐいっとあおる。美味しくてするする飲めてしまう。
「ずいぶん現実主義なんだね」
俊哉が興味をひかれたような顔をする。
「親が、金銭問題で離婚しているので」
もうひと口ウイスキーを口にする。頭のなかがとろんとしてきた。飲みやすいとはいえアルコール度数は高いので、さすがに少し酔いが回ってきたようだ。
「それは……大変だったね」
気遣われているのを感じるが、陽菜にとってはもう十年以上前のことなのでどうということもない。
「父は下町の町工場の二代目で、母と結婚した当初はけっこう羽振りがよくて。夫婦仲はよかったですし、すぐ生まれてきた私にもなんでも買ってくれました」
しかし父に商才はなかったようで、事業はだんだんと傾きはじめた。それでも贅沢するクセは抜けず、ギャンブルでお金を取り戻そうとしてずぶずぶと駄目になっていき、母は父を見限って家を出た。陽菜が十歳のときだった。
「私が大人になるまで、父は養育費を一銭も出しませんでした。そして母は、まだ子供だった私にお金がなくてどんなにみじめか、毎日のように愚痴をこぼしました」
陽菜はまたひと口、ウイスキーを飲んだ。もういくらも残っていない。
「奨学金とアルバイトでなんとか大学を卒業して司書として……非常勤ですけど就職して少しした頃、離婚して以来はじめて父から会いたいと言われて。そのときはまだほんの少しだけ親に期待する気持ちが残っていたので、ドキドキしながら会いにいきました」
「うん」
俊哉がじっとこちらを見ている。穏やかな目だった。
見つめ返す気にはなれず、陽菜は東京タワーを眺めながら話し続ける。
「久しぶり、とか大きくなったな、とか通り一遍のことを話したあと……父は私に小遣いをせびってきました。笑っちゃいますよね、養育費も払わなかったくせに」
ハハッと乾いた笑いが出た。
父にはそのとき、財布に入っていた一万円札を一枚渡した。これしかないのかと不満そうな顔をされたのを、はっきり覚えている。
「それから、ひとになにかを期待するのをやめました。期待しなければ絶望することもないので」
「それは……ちょっと、寂しい考え方なように思えるけど」
「私はひとに振り回されず、心穏やかに生きていきたいんです。そのためにはもっと安定した職を得たいんですけどね」
思わずため息が出た。
「いまは非常勤だって言ってたね?」
陽菜は頷いた。
またグラスを傾けて残りのウイスキーを飲む。フワフワした気分だ。初対面のひとに自分の話をこんなにするなんて信じられない。心地よい酔いと宝石箱をひっくり返したみたいな夜景と穏やかな声の俊哉の相槌のせいで、口が軽くなっているのがわかる。
「新卒のとき、公務員試験に落ちてしまって」
図書館司書の正職員は、狭き門だ。自治体によっては募集自体がない年もあるし、あっても二、三人の枠に何十人も応募が殺到したりする。
「いまはひとり暮らしをしているんですけど、司書のお給料だけではやっていけなくて、夜ファミレスでアルバイトもしてます。それでギリギリ。おかげで公務員試験に再チャレンジしたいし、大学院で図書館情報学の勉強もしてみたいのに、そんな時間もありません。こんな悩みだってお金があれば解決しますよね」
「たしかに」
俊哉がうんうんと頷く。
それを見て、陽菜はハッと我に返った。
「……すみません」
「え、なにが?」
俊哉はなぜ突然謝られたのか、本当にわからないという顔をしている。
「今日初めて会ったひとに、しかもおめでたい結婚式のあとに、こんなつまらない愚痴を聞かせてしまって」
「全然つまらなくなんてないよ。すごく頑張ってるんだなと思って聞いていた」
「ありがとうございます」
やっぱり優しいひとだ。自分の住んでいる世界と全然違う陽菜の境遇が興味深かったのかもしれないが。
「ところで……」
俊哉が軽く言い淀んだあと、組んでいた脚を下ろし、じっと陽菜の目を見てきた。
「二次会で出会いを求めて群れていた招待客たちから距離を置いていたけど、きみは結婚に興味がないタイプ?」
「興味がないというか、夢を持てないところはありますね」
「それはご両親のことがあったから?」
陽菜は頷いた。
「どうしてもお金がなくなれば愛情もなくなる、儚い関係だと思ってしまいます。もちろん世の中そんな夫婦ばかりじゃないんでしょうけど」
俊哉はどうなのか聞き返そうとして、やめた。彼は三日前に婚約者に逃げられたと言っていた。無神経な質問すぎるし、婚約者がいた時点で結婚に強い関心があるに決まっている。
これだけ優しくて容姿に優れ、ホテルの最上階のバーを普段使いできるひとだ。婚約者も、そして今後彼が選ぶであろう女性も、きっと育ちのいい素敵なお嬢様なのだろう。
胸のなかがもやもやしてきたのを無視する。
自分は二次会会場でたまたま居合わせただけの女だ。俊哉にふさわしくないことなんてわかりきっている。
陽菜は腕時計を見た。時刻は午後十一時が迫っている。楽しい時間はあっという間だ。
名残惜しいが終電の時間を考えると、そろそろ店を出た方がいい。
「私、そろそろ失礼します」
「おっと、もうこんな時間か。遅くまで付き合ってくれてありがとう。ちょっと待って」
俊哉がささっとスマートフォンを操作する。
タクシーの配車アプリだろうか。
「あの、私電車で帰ります」
「送るよ。その足だと、電車はつらいでしょ」
「……すみません」
どうやら靴擦れしていることに気づかれているらしい。恥ずかしいのと申し訳ないのとで、陽菜は小さくなった。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
立ち上がった俊哉のあとについてバーの出入り口に向かう。俊哉がそのまま店から出ようとするものだから、慌てて呼び止めた。
「あの、お会計は」
「もう払ったから大丈夫」
いつのまに。さっきスマートフォンを触っていたときだろうか。
しかし自分の愚痴を聞かせるだけ聞かせて奢ってもらうのは、さすがに悪い。
「自分の分は出します」
「いいよ、俺が誘ったんだし」
「……すみません」
こんな大人っぽいバーの店先でお金を押し付けるのもと思い、引くことにする。その代わり、タクシー代は払わせてもらおうと決意したのだが。
「……え?」
ホテルの玄関に横づけされていた車の上に行灯はなく、タクシーではなかった。
高そうな黒塗りのセダンだ。運転席の横には、定年を過ぎたような年頃の男性が立っていた
「どうぞ」
うやうやしく頭を下げて、男性が後ろのドアを開いた。
「さ、乗って」
先に後部座席に乗り込んだ俊哉が手招きしてくる。
陽菜は戸惑いながら彼の隣に座った。
俊哉はたしか、不動産会社のサラリーマンだと言っていたが、普通のサラリーマンが運転手つきの車なんて持っているものだろうか。もうなにがなんだかわからない。
「住所は?」
「あ、えっと」
陽菜が住所を口にすると、車はスーッと走りだした。
車のなかではほとんど会話をしなかった。
俊哉は窓の外に目をやり、ずっと考え込むような顔をしていた。
二十分ほど走り、陽菜の住むアパートの前に着く。
「今日はあの……本当にありがとうございました」
「こちらこそ、付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ」
車のなかから俊哉が小さく手を振ってきた。
陽菜は彼の乗った車が見えなくなるまで見送った。
そのあとで連絡先を聞かれなかったなと思ったが、がっかりはしなかった。
素敵なバーで俊哉と過ごした時間は、夢みたいだった。それだけで十分だ。