愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる
 美玲は今日もハイヒールを履いて長い脚を大胆にさらしている。
 まさか公立図書館を利用しに来たとは思えない。陽菜に会いに来たのだろう。それにしても、よりによって一番嫌なタイミングでやってくるとは。
「あなたがお金を渡していた、あの貧乏くさい男は誰?」
 答える気にならず、地面に視線を落とす。
「まさかとは思うけど、あなたのお父様なの?」
 しかたなく陽菜はうなずいた。どうせ話も聞かれていたのだろう。
「そうですけど、それがなにか」
 美玲は大げさに両手を上げて驚きを表した。
「信じられない。俊哉が子供にお金をせびるような家の子と結婚したなんて。ボランティアのつもりだったのかな。それか、私が駆け落ちしちゃったことがショックで一時的な気の迷いで結婚しちゃったか」
「あなたには関係ないことだと思いますが」
「関係あるわよ、おおありよ」
 美玲が一歩距離を詰めてきた。陽菜は意地で後ろに下がらなかった。
「私、やっぱり俊哉と結婚しようと思うの」
「……は?」
「お金がなくても愛があれば……なんて思って駆け落ちしちゃったんだけど、経済的な価値観が合うかどうかって本当に大事ね。この数か月で痛感したわ。節約して生活するなんて、私には無理」
「だから俊哉さんとよりを戻そうと考えたんですか。ずいぶん都合のいい話ですね」
「でも渡會のおじさまとおばさまは、私の方が俊哉の妻にふさわしいって言ってくれたわ」
 痛いところを突かれた。
 陽菜は体の脇でぐっとこぶしを握り締めた。
「代わりのお役目、ご苦労様。わかるでしょ? あなたじゃ俊哉にふさわしくないの。家同士の格式は同じくらいの方が結婚はうまくいく。駆け落ちしてみてよくわかったわ。あなたはあなたにふさわしい、その辺のサラリーマンとでも結婚したらいいわよ」
 言いたい放題言われ、言い返したいのに言葉が出てこない。
「まあでも……せっかく玉の輿に乗れたと思ってるのに、いきなりこんなこと言われてもすぐに納得できない気持ちはわかるわ」
 美玲は蔑むように笑って、ハイブランドのハンドバッグから分厚い封筒を取り出した。
「はい」
「……なんですか、それ」
「あなたの大好きなお金。五百万入ってる。離婚するための手数料とでも思ってくれればいいわ」
 怒りで目の前が一瞬赤くなった。
「なにその顔。五百万じゃ足りないの? 本当に欲深いわね、育ちの悪いひとって」
「……俊哉さんは、あなたが私に会いに来ることを知っているんですか」
「俊哉に助けてもらおうと思ったって無駄よ。私が何年俊哉と一緒にいたと思ってるの。俊哉はね、子供の頃から私のお願いを聞いてくれなかったことは一度もないの」
 美玲は自信満々という様子で胸を張ってきた。
 陽菜は結婚してからいままでの俊哉との暮らしを思い起こした。
 初めはお互い、割り切った関係だと思っていた。俊哉は配偶者を欲しがっていたし、陽菜は時間とお金のゆとりを欲していた。お互いにメリットがあったからこその結婚で、そこに愛情はなかったはずだった。
 しかし時間が経つにつれ、ふたりの心の距離はだんだんと近づいていった。
 思いが通じ合った初めての夜を、陽菜は一生忘れないだろう。
 いま、俊哉と自分は愛し合っている。少なくとも陽菜はそう信じている。
 けれど、俊哉が配偶者を求めたきっかけが美玲の駆け落ちであることもたしかだ。美玲が親に連れ戻されなくて済むように妻帯者になりたかったと、実家に挨拶に行ったあと俊哉は認めていた。
「私は……俊哉さんを愛しています」
「そう。でもその愛は、本当に俊哉のためになるのかしら」
 陽菜は下唇を噛んでうつむいた。
 家で居心地よく過ごしてもらえているのはわかる。
 だが俊哉が両親と疎遠になったのは、間違いなく陽菜のせいだ。そしてこれ以上彼が陽菜と一緒にいたら、いつか必ず陽菜の両親が俊哉に迷惑をかけることになるのも目に見えている。
 唇を噛んだまま、目の前の美玲を見る。
 美玲の父親は、会社を経営していると聞いた。きっと陽菜の父親とは比べ物にならないくらい立派なひとなのだろう。
 そして俊哉は一度は美玲と結婚することを了承していた。妹みたいに思っていたと言っていたが、美玲のこの気の強さや気まぐれなところを知っていて、結婚してもいいと思うくらいには好いていたわけだ。
 だったらきっと、陽菜と別れて美玲と結婚しても、それなりにうまくやっていくのだろう。
「……お金はいりません」
「わかってないわねえ」
 美玲は馬鹿にしたような顔になった。
「あとからやっぱり別れたくないとかぐずぐず言わせないためのお金なの。手切れ金って言えばわかってくれるかしら」
 美玲の言葉はナイフのようだ。さっきからいちいちグサグサと心臓を刺されたような痛みがあり、もう立っているのがつらい。
 五百万を受け取ってしまえば、楽になれるのだろうか。
「はい、どうぞ」
 美玲が再び分厚い封筒を陽菜の胸の辺りに差し出してくる。
 飾り気のないその茶色い封筒をじっと見て、陽菜が手を伸ばしたときだった。
 キキーッと車が急ブレーキをかけた音がして、陽菜はパッと顔を上げた。
「──陽菜っ」
 見慣れた車のなかから降りてきたのは、陽菜の最愛の夫だった。
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