愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる

プロポーズは突然に

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 時間が止まった気がした。
 いま、俊哉はなんと言った?
「俺と、結婚してください」
 もう一度言葉にされ、やっとプロポーズされたのだと理解する。
 しかし、からかわれているとしか思えない。彼と陽菜は昨日出会ったばかりなのだ。交際していないどころか、好意を伝え合ってすらいない。
「渡會さん」
「はい」
 陽菜は握られている右手を引こうとしたが、俊哉は離してくれなかった。
「冗談というものは、笑えるから冗談として成り立つのであって、おもしろくないものは冗談とは言えません」
「いや、冗談じゃなくて」
「ではなぜ? 私だって、自分が愛されているのかどうかくらいわかります」
 そして俊哉は陽菜のことを愛していない。
 共に過ごした時間が少なくとも、燃えるような恋に落ちることはあるのかもしれない。それこそ、ロミオとジュリエットみたいに。だが俊哉の瞳にはそういった熱のようなものが感じられないのだ。
 ただ陽菜を馬鹿にしている様子はない。まっすぐな視線には誠意のようなものすら感じる。よくわからないひとだ。
「ありていに言えば、世間体のためというか」
 俊哉がにこっと笑いかけてくる。
「はっきり言いますね」
 なんでも正直に言えばいいというものでもないように思うが。
「だって、きみのことが好きだって言ったって信じてくれないだろ」
 それはまあそうだ。
「両親がさ、そろそろうるさくて」
「渡會さんて、いまおいくつなんですか?」
「三十」
 まだ焦るような年齢ではないと思うのだが、運転手つきの車を持っているような家の考え方など陽菜にはまるで想像できない。
「破談になった直後なんですよね? よく会ったばかりの私と結婚しようなんて思えますね」
「まだ結婚式場を予約してはいなかったんだけど下見には行ってたし、俺馬鹿だからもうすぐ結婚するってあちこちで話しちゃってたんだよね」
「そういえば昨日の二次会でも、『次はおまえの番だな』とか言われてましたね」
「そう。それで考えたんだけど」
 俊哉が陽菜の手を握ったまま軽く身を乗り出してきた。
「たとえ相手が変わっても、結婚しちゃえば嘘をついたことにはならないんじゃないかと」
「なるほど。お断りします」
 陽菜は笑顔で断った。即答だった。迷う余地もない。
 しかし俊哉は引こうとしない。
「そこをなんとか」
「言いましたよね? 私、結婚に夢を持っていないって」
「奇遇だな、俺もだよ。気が合うね、きみとはうまくやれそうだ」
 俊哉は心底嬉しいというように、爽やかな笑みを浮かべた。
 そして陽菜はドン引きした。
 いまの会話で、どこをどう解釈したらうまくやれそうだと思えるのか。
「俺の両親は離婚こそしていないけれど、仲睦まじいという感じではなくて。夫婦というよりビジネスパートナーといった方が近いかな。そんなだから、俺も結婚に夢は持っていないんだが、どうせ誰かといつか結婚しなきゃいけないのなら楽しく暮らせるにこしたことはないだろ。そして俺は昨日きみと話していてとても楽しかった」
「はあ」
 楽しかったのは陽菜も同じだ。でもそれは俊哉が聞き上手だったからで、気が合っていたとは思えない。
「俺はきみの正直で気取らないところがすごくいいと思っている」
 俊哉とは友人の知り合いという関係でしかなかったしお酒も入っていたから、昨晩の陽菜はたしかに正直で気取っていなかった。
「苦労しているだろうにしっかり自立していて、結婚やパートナーに何かを期待していなさそうなところもすごくいい」
「そう言われましても」
「いま俺が住んでいるマンション、部屋は余ってるし身一つできてくれたらいいから。分譲でローンもないから家賃はいらない」
「……え」
 アパートが来月更新だったことを思い出し、ぴくっと反応してしまう。
 俊哉と一緒に暮らせば、家賃分がまるまる浮くということか。しかもマンション。
 安さと二階というだけで選んだので、いまひとりで暮らしている木造アパートに愛着はない。安いだけあって壁が薄く、隣の部屋の電子レンジの音まで聞こえてくる。熟睡しづらいし、勉強していてもしょっちゅう気が散るので困っている。
 いやいやいや。
 陽菜は首を横に振った。そんなことで結婚を決めるなんておかしいだろう。
 それに、部屋が余っているほど広くてご立派なマンションだと、光熱費がすごそうだ。折半したら、軽くいまの家賃くらいいくかもしれない。
 などと必死で断る方向に思考を持っていこうとしていると。
「生活費も、折半なんてケチくさいことは言わないよ。俺が全部出す」
「そんなわけには」
「いまだって俺ひとりで払ってるわけだから。きみひとり増えたところで、たいして変わらないでしょ」
 そう言われると、そんな気もしてくる。
「仕事は続けたければ続けていいし、なんなら辞めてもいい」
「え」
「でも司書の仕事は気に入ってそうだよね。アルバイトだけでも辞めたらどうだろう。そうすれば来年の公務員試験の勉強時間がたっぷりとれるし、きみの夢だった大学院にも行けるかもしれないよ」
 連発される陽菜にとって都合のいい言葉に心がぐらついてくる。もうぐらんぐらんだ。
 いやいやいや。
 陽菜は再び首を横に振った。
 どんなに自分にとってメリットがあろうとも、そんなことで結婚を決めるのは間違っている。
「やっぱりお断りします。愛情がないのに結婚なんてするべきじゃありません」
「世の中に大勢いるお見合い結婚したひとたちを敵に回すようなこと言うね」
「そういうわけじゃ」
 言われてみればたしかに、お見合いや友人に相手を紹介してもらったりして結婚する場合は結婚後に徐々に愛情を育んでいくもので、結婚する時点では恋愛という意味での愛情を抱いているケースは少ないだろう。
「俺はきみに好感を抱いているよ。恋愛的な意味でかと問われると違うけど。きみは俺のことが嫌い?」
「……嫌いではありませんが、正直恋愛感情はないです」
「それでいい」と俊哉が頷く。
「恋愛感情に振り回されて結婚するより、ひととして嫌いではないくらいの感情の方が、案外うまくいくんじゃないかと思うんだ」
 そう言われるとそんな気もしてくる。
 陽菜は父親の一件があったときから、他人に期待するのをやめた。期待しなければ、がっかりすることもない。
 結婚も同じように考えてみたらどうだろうか。
 最初から期待しなければ、がっかりすることもないのではないだろうか。
「俺のことは夫というより同居人だと思ってもらえればいい」
 俊哉がダメ押しするように言う。
「いや……でも……」
 そう簡単には頷けなかった。俊哉とは昨日知り合ったばかりだ。陽菜は彼のことを三十歳の不動産関係のサラリーマンということくらいしか知らない。
「一生のことって思っちゃうと難しいのかな。じゃあお試し期間を設けてみるとか」
「お試し期間?」
「一年間一緒に暮らしてみて、やっぱり無理だと思ったら別れよう。結婚というより同居だと思ってくれればいいかも。籍は入れるけど」
 お試しというから同棲の提案をされるのかと思いきや、籍は入れたいらしい。
 俊哉がなにを考えているのか、まだいまいちよくわからない。なぜそこまで結婚を急ぎたいのだろう。
 すべての事情を話してくれてはいない気がする。しかし陽菜にとってはかなりのメリットのある話だ。
 悩んだあげく、陽菜は俊哉の顔を見て口を開いた。
「一度持ち帰って、検討させてください」
「了解しました」
 そう言ってから、俊哉はフフッと笑った。
「なんだか仕事みたいだな」
 陽菜の手を放し、すっかり冷めてしまったパスタにフォークを運ぶ。
 とりあえず陽菜の回答に満足したらしく、それからの俊哉はずっと上機嫌だった。

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