愛なき凸凹夫婦だったのに、生まじめ妻は御曹司の熱情愛に堕ちる
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 木曜日の朝は、綺麗に晴れた。
 陽菜は髪を一本に縛り、ジーンズに長袖Tシャツというラフな格好で引っ越しにのぞんだ。といっても、荷造りから荷物の運び出しまですべてお任せのパックを俊哉が頼んでくれたのでやることはそんなにないのだが。
 冷蔵庫や洗濯機など一家にふたつあっても困る家電は引っ越しと同時に処分したので、もともと少ない荷物はさらに少なくなった。こんなだったら、レンタカーでも借りて自力で引っ越していればもっと安く済ませられたのにと、節約心が疼く。
 荷物を全部運び出したあとの掃除まで俊哉が頼んでいてくれたので、陽菜がやったのは管理会社による部屋の点検の立ち合いくらいだ。綺麗に使っていたからと、敷金はほとんどまるまる戻ってくることになった。
 俊哉は自分が住んでいるマンション、つまりは陽菜にとっての新居で荷物の受け入れに立ち会ってくれているので、陽菜は教えてもらった住所を頼りに電車でそちらに向かった。
 俊哉のマンションは電車に乗っている時間だと職場の図書館まで片道十五分ほど長くなるが、最寄り駅から徒歩で二十分かかったこれまでのアパートとは違い駅のすぐ前にあるらしいので、通勤時間はむしろ短くなる。
 新居の最寄り駅で電車を降りて、大きく息を吐く。
 この辺りはいわゆる高級住宅地というのだろうか。駅ビルこそ大きいが、飲み屋街みたいなものはない。駅の改札の東側に出ると昔からの一軒家が多く、西側から出るとマンションが立ち並んでいる。
 陽菜は西側から駅の外に出た。
 今日から住む予定のマンションは、大通りから一本横道に入ってすぐのところにあった。チャコールグレーを基調とした落ち着いたファサードが印象的な十階建てのマンションだ。当たり前だがいままで住んでいたアパートとは雰囲気が全然違って緊張してきた。
 インターホンを鳴らして、オートロックの玄関を開けてもらう。
 入ってすぐのところにある受付には首にスカーフを巻いた上品な女性コンシェルジュがいて、恭しく頭を下げてきたので慌てて下げ返す。
 ソファの置かれた広いロビーを横切ったところにあるもうひとつのオートロックを俊哉に開けてもらい、エレベーターで最上階へ向かう。
 エレベーターを降りたところで、違和感を覚えた。
 こういった集合住宅では、廊下に各住戸の玄関ドアが並んでいるはずなのに、ひとつしかない。
 戸惑いながら表札のないたったひとつのドアのチャイムを鳴らす。
 玄関で待ち構えていたらしく、ドアはすぐに開き、笑顔の俊哉が顔を出した。
「おかえり。入って入って」
 引っ越し作業のためか、俊哉はジーンズにTシャツというラフな格好をしている。スーツ姿の彼しか見たことがなかったから新鮮で、反応するのが遅れた。
「……お、お邪魔します」
「ただいまでしょう、今日からはここがきみの家なんだから」
 そう言われても、下見にも来なかったからこの家に入るのは初めてで、とてもまだ〝我が家〟とは思えない。
 大理石でできた三和土は、来客が十人以上あっても余裕で靴を並べられるくらい広い。
 俊哉の身なりや車からマンションも相当立派なんだろうなと思ってはいたが、これは想像以上かもしれない。
 とりあえず勧められるままスリッパを履いて俊哉のあとをついて歩く。
「荷物はもう届いたよ」
「引っ越し屋さん、早かったですね」
「荷物ほんと少なかったから、あっという間に終わったよ。あ、きみの部屋はここね」
 俊哉が廊下の右側にあるドアを開けた。
 なかを見てみると、いままでひとり暮らししていた部屋よりずっと広い。そこに、アパートから運んでもらった段ボール箱が四つ積んである。
 クローゼットには、ハンガーに掛けたまま運んでもらった服類がもう掛けられていた。
 ベッドは来客用としてもともとこの部屋にあったものを使わせてもらうことになったのだが、ダブルサイズはある。
「カーテンとか寝具は、自分の気に入ったものに買い替えてくれて全然いいから」
「ありがとうございます」とは言ったが、無地の茶色で統一されたファブリックは落ち着いていてとても素敵だ。このまま使わせてもらおう。
「家のなかを案内したいところだけど、疲れたでしょ。まずはお茶にしよう」
「はい」
 廊下を突き辺りまで歩き、俊哉がドアを開く。
「……は?」
 目の前の光景が信じられず、陽菜は立ちすくんだ。
 玄関の広さからある程度広々しているだろうと想像してはいたが、これは一般的な家庭のリビングではない。ちょっとしたパーティーを開けてしまいそうな空間だ。
 ギギッ、ギギッ、と油の足りていない金具を回すようにぎこちなく首を動かす。
 馬鹿みたいに大きなダイニングテーブルだ。たぶん十人以上座れる。白い革の応接セットは、本で見たことがあるデザイナーズソファだ。
 さらに首を動かすと、ビリヤード台とグランドピアノが置かれていた。
 ハイサッシの窓の外には、隣接している公園の緑が見える。
 陽菜の動揺をよそに、俊哉はリラックスした様子でキッチンに入っていった。
「適当に座って。コーヒーでいいよね」
 適当にと言われても、椅子やらソファやらがありすぎてどこに座ればいいのかわからない。とりあえず、リビングの入り口から一番近いダイニングチェアに腰を下ろした。まったくくつろげない。
「お待たせ」
 俊哉がコーヒーをふたつ持ってきて、ひとつを陽菜の前に置いた。
「……ありがとうございます」
 マグカップはエルメスだった。エルメスにマグカップがあるなんて初めて知った。
「なんか静かだね。疲れた?」
「いえ、あの……」
 落ち着こうとコーヒーをひと口飲んだ。きっといい豆を使っているのだろうが、全然味がしない。この家に入ってから驚くことばかりで、いったいどこから突っ込んでいいのかわからない。
「渡會さんは、サラリーマンなんですよね?」
「うん、不動産関係のサラリーマンだよ」
「一般的なサラリーマンが暮らしている部屋にしては、少しばかり広すぎる気がするんですが」
 しかも都心の高級住宅地にあるマンションの最上階だ。いったいいくらするのか、見当もつかない。
「建つ前に最上階を全部買ってひとつの家にしたんだ。友達と集まれるように広いリビングが欲しいなと思って」
 なんでもないことのように言われ、混乱が増す。
「もう一度聞きますけど、サラリーマンなんですよね!?」
 副業で一発当てたとかそういうことなのかもと思ったが、俊哉の答えは陽菜の想像を超えていた。
「うん、サラリーマンだよ。渡會不動産って会社の」
「……渡會?」
 その会社なら、名前は聞いたことがある。
「父親が社長でね。俺は三代目になる予定。言ってなかったっけ」
 つまりは御曹司ということか。
 陽菜は頭を抱えた。
「聞いてないですよ、そんな話」
「ごめんごめん」
 俊哉の謝罪は軽い。たぶん悪いと思っていない。
「なんなんですか、これは。逆結婚詐欺? 私のことをどうしたいんですか」
「どうって、結婚したいだけだよ。俺を妻帯者にしてもらいたい。他にはなにも求めていない」
「……家政婦代わりとか?」
 それにしたって、こんな暮らしをできるくらいなら家政婦ぐらい余裕で雇えそうだ。
「ああ、家事は基本しなくていいよ。掃除は週に二回ハウスクリーニングを頼んでるし、洗濯は全部クリーニングに出してる。しいて言うなら、朝食を作ってくれたらありがたいかなあ。夜は俺外食が多いから大丈夫」
「はあ……」
「他に聞きたいことはある? なかったら区役所に婚姻届けを出しにいこう」
「えっ、もうですか」
 陽菜はマグカップを持ったままのけぞった。
「引っ越しがあっという間に終わったから午後は時間があるし、転入届を出すなら姓も一緒に変えちゃった方が楽かと思ったんだけど。だめ?」
「だめというか……両家顔合わせとか、そういうのは?」
「うーん、必要かなあ」
「一般的には必要なんじゃないですか。私は正直やりたくないですけど」
 口を開けば愚痴かお金の話しかしない母と俊哉を会わせるのは気が重いし、父親に至ってはたかってくるに決まっているから結婚するなんて絶対知られたくない。
 しかし俊哉の方は、御曹司ともなればそうもいかないだろうと思ったのだが。
「……もしかして、ご両親に私と結婚するって話していなかったりします?」
「うん」
 俊哉は晴れやかな笑みを浮かべて頷いた。
 陽菜は頭を抱えた。
 大丈夫なのか、この結婚は。
「とはいえずっと黙ってるわけにはいかないから、来週にでもふたりで挨拶にいこうか」
「ほんとにいいのかなあ……」
「いいんだよ。入籍前に知られてごちゃごちゃ言われたら面倒だし」
 俊哉には迷いがないようだが、陽菜は自分が大会社の社長のところへ御曹司の妻としてのこのこと顔を出すシーンを想像して、不安になった。
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