部長と私の秘め事
『反論するなんて何様のつもり!? あなたが八年間ものうのうと篠宮家で生活していた裏で、私がどんな想いをしたか! あなたの母親は、既婚者をたぶらかして子供を二人も産んだ! その子供が同じ家にいたのよ!?』
怜香の口から怨嗟の声が漏れる。
『私がなぜ亘さんと離婚しなかったか分かる? 見合い結婚でも夫を愛しているし、妻の役目を果たすと決めたからよ! 私は篠宮家に嫁いで風磨を産んだ。あの子が理想のお嫁さんをもらって立派な社長になり、可愛い孫を見せてくれる日まで、絶対気を抜けないの!』
怜香は鬼気迫る表情で続ける。
『離婚すればいい笑いものになるわ。私が結婚した時、どれだけ周囲から羨まれたか知ってる? 美男美女と言われて〝理想的な家庭を築くに決まっている〟と言われていたのよ。それが…………』
彼女はワナワナと全身を震わせて俺を指さし、ヒステリックに叫んだ。
『〝あなた〟さえいなければ……っ! どうして私の夫なのよ! なんで他の男じゃ駄目だったの? 学生時代からの付き合いなら何をしても許されるの? 私が夜も眠れず子育てしている裏で〝あなた〟は夫と寝ていたのよね! 汚らわしい!』
怜香は怒りのあまり、正気を失いかけているようだった。
彼女が激しい目で睨んでいるのは、俺ではなく母だろう。
俺はよく父に『お前はさゆりに似ているな』と言われていた。
最初は似ていないと思っていたが、成長してから母の写真を見ると『目元が似ているかも』と思った。
昔、宮本にも言われた。
《速水くんは不思議な魅力があるよね。目力があるっていうか、見つめられていると変な気分になる。いつもは何とも思わないのに、見つめられてると誘惑されているように感じるんだ。だから、君を〝セクシーな男性〟と言う人の気持ちが分かるよ》
それを裏付けるように、バーで飲んでいると『誘ったでしょ』と逆ナンされた事もあった。
見た目や眼差しなんて、ただの遺伝だ。
誘惑しようと思って人を見ていないし、その気がないのに誤解されてうんざりしている。
(母が父を誘惑した? あり得ない。母は自ら不倫を望む人じゃない)
俺とあかりが産まれたのは、父の責任だ。
母が俺に『外に出ていなさい』と言った時、父は母を強引に抱いていたんだろう。
あいつは母を自分のものにできるなら、他の事なんてどうでもいいと思っていた。
それはもう純愛じゃない。ただの薄汚れた欲望だ。
父は母と結ばれなかった事で余計に執着し、理想化した。
あいつは生まれた子供がどんな人生を歩むかなんて、まったく考えていなかったに決まっている。
本当は怜香だって、すべての元凶は夫だと分かっているはずだ。
でも夫の過ちを認めれば、そんな馬鹿と結婚した自分の人生も間違えていると認めてしまう事になる。
夫が浮気相手に入れ込み、マンションを買い与えて金を送っていた事も、すべて認めなければならなくなる。
怜香は〝間違えた夫を持つ妻〟になりたくないから、俺たちを絶対的な悪にして現実を見ないようにしている。
そうすれば〝被害者〟〝正義〟でいられるから。
怜香が悲劇のヒロインとして『浮気された、夫がふしだらな女に誘惑された』と言えば、誰もがこいつに同情し、慰める。
自分自身、そして夫と向き合わなかったのは己の非なのに。
心の中で自分に言い聞かせている間も、我を忘れた怜香は俺を罵倒し続けた。
『あんたは存在そのものが罪なのよ! 芸能人だって不倫したら叩かれるじゃない! あんたは犯罪者なのよ! 皆さんの前で土下座して謝罪して、刑務所に入って二度と顔を見せないで!』
心の中は、無だ。
俺は石像になった気持ちで怜香の言葉をやり過ごす。
『あんたなんかに人は愛せない! あんたは自分の浅ましい欲を満たすために、人様のものをかすめとって優越感に浸っているだけのクズよ! このゴミ!』
そこまで言った時、エントランスのドアが開いてマンションの住人が入ってきた。
ハッとした怜香は我に返り、興奮して呼吸を荒げたまま俺を睨む。
『あなたは一生、誰にも愛されない。幸せなんて感じてはいけないの。自分は罪の化身だと自覚して、一生慎ましやかに生きなさい。あなたには何もできない。誰かを喜ばせる事も、愛する事もできないし、求められる事もない。生きているだけの汚物だと自覚なさい』
怜香は徹底的に俺を否定したあと、踵を返して去っていった。
嵐が去ったあと、俺はドサッとロビーのソファに座り込んだ。
『…………自分がろくでもない男だって事ぐらい、分かってるよ』
あいつに酷い事を言われるのは慣れているはずなのに、色んな事がありすぎて心がすり切れそうだ。
『…………どうせ俺はクズだよ』
俺は目を閉じ、自分が朱里の人生をねじ曲げた事を思いだす。
(俺に目を付けられたばかりに可哀想に。本当なら自分で進路を決めていたはずだったのに。自分の上司がストーカーだったなんて、ホラーだろ)
彼女を想うと、色んな感情が溢れて泣きたくなってくる。
朱里が好きで堪らない。
あいつを抱きたいし、自分の女にして大切にしたい。
ここまで大切に守ってきた分、責任を持って幸せにしたい。
――でも、お前は朱里の意志を無視してるだろ。
――お前がやってる事は、金を持ったストーカーの囲い込みだ。
それでも……。
『…………朱里がほしい…………っ』
たった一つ、俺の心の中で輝く綺麗な星。それが朱里だ。
この闇に包まれた人生を、ほんのりとした灯りで照らしてくれるのが彼女だ。
もしもあの子を愛して幸せにできたなら、自分はクズじゃないと思える気がする。
そこまで考えた時、中村さんの言葉が脳裏に蘇った。
《自分の孤独を慰めるために、朱里を利用しないでください》
君の言う通りだ。俺は自分の孤独や絶望を癒すため、朱里を愛して〝まともな人〟のふりをしようとしている。
――けど、ちゃんと愛すから。
――心の底から愛して、子供も大切にして、幸せな家庭を築くから。
――神様お願いだ。
――あの子を俺にください。
気がつけば俺は、俯いて嗚咽していた。
怜香の口から怨嗟の声が漏れる。
『私がなぜ亘さんと離婚しなかったか分かる? 見合い結婚でも夫を愛しているし、妻の役目を果たすと決めたからよ! 私は篠宮家に嫁いで風磨を産んだ。あの子が理想のお嫁さんをもらって立派な社長になり、可愛い孫を見せてくれる日まで、絶対気を抜けないの!』
怜香は鬼気迫る表情で続ける。
『離婚すればいい笑いものになるわ。私が結婚した時、どれだけ周囲から羨まれたか知ってる? 美男美女と言われて〝理想的な家庭を築くに決まっている〟と言われていたのよ。それが…………』
彼女はワナワナと全身を震わせて俺を指さし、ヒステリックに叫んだ。
『〝あなた〟さえいなければ……っ! どうして私の夫なのよ! なんで他の男じゃ駄目だったの? 学生時代からの付き合いなら何をしても許されるの? 私が夜も眠れず子育てしている裏で〝あなた〟は夫と寝ていたのよね! 汚らわしい!』
怜香は怒りのあまり、正気を失いかけているようだった。
彼女が激しい目で睨んでいるのは、俺ではなく母だろう。
俺はよく父に『お前はさゆりに似ているな』と言われていた。
最初は似ていないと思っていたが、成長してから母の写真を見ると『目元が似ているかも』と思った。
昔、宮本にも言われた。
《速水くんは不思議な魅力があるよね。目力があるっていうか、見つめられていると変な気分になる。いつもは何とも思わないのに、見つめられてると誘惑されているように感じるんだ。だから、君を〝セクシーな男性〟と言う人の気持ちが分かるよ》
それを裏付けるように、バーで飲んでいると『誘ったでしょ』と逆ナンされた事もあった。
見た目や眼差しなんて、ただの遺伝だ。
誘惑しようと思って人を見ていないし、その気がないのに誤解されてうんざりしている。
(母が父を誘惑した? あり得ない。母は自ら不倫を望む人じゃない)
俺とあかりが産まれたのは、父の責任だ。
母が俺に『外に出ていなさい』と言った時、父は母を強引に抱いていたんだろう。
あいつは母を自分のものにできるなら、他の事なんてどうでもいいと思っていた。
それはもう純愛じゃない。ただの薄汚れた欲望だ。
父は母と結ばれなかった事で余計に執着し、理想化した。
あいつは生まれた子供がどんな人生を歩むかなんて、まったく考えていなかったに決まっている。
本当は怜香だって、すべての元凶は夫だと分かっているはずだ。
でも夫の過ちを認めれば、そんな馬鹿と結婚した自分の人生も間違えていると認めてしまう事になる。
夫が浮気相手に入れ込み、マンションを買い与えて金を送っていた事も、すべて認めなければならなくなる。
怜香は〝間違えた夫を持つ妻〟になりたくないから、俺たちを絶対的な悪にして現実を見ないようにしている。
そうすれば〝被害者〟〝正義〟でいられるから。
怜香が悲劇のヒロインとして『浮気された、夫がふしだらな女に誘惑された』と言えば、誰もがこいつに同情し、慰める。
自分自身、そして夫と向き合わなかったのは己の非なのに。
心の中で自分に言い聞かせている間も、我を忘れた怜香は俺を罵倒し続けた。
『あんたは存在そのものが罪なのよ! 芸能人だって不倫したら叩かれるじゃない! あんたは犯罪者なのよ! 皆さんの前で土下座して謝罪して、刑務所に入って二度と顔を見せないで!』
心の中は、無だ。
俺は石像になった気持ちで怜香の言葉をやり過ごす。
『あんたなんかに人は愛せない! あんたは自分の浅ましい欲を満たすために、人様のものをかすめとって優越感に浸っているだけのクズよ! このゴミ!』
そこまで言った時、エントランスのドアが開いてマンションの住人が入ってきた。
ハッとした怜香は我に返り、興奮して呼吸を荒げたまま俺を睨む。
『あなたは一生、誰にも愛されない。幸せなんて感じてはいけないの。自分は罪の化身だと自覚して、一生慎ましやかに生きなさい。あなたには何もできない。誰かを喜ばせる事も、愛する事もできないし、求められる事もない。生きているだけの汚物だと自覚なさい』
怜香は徹底的に俺を否定したあと、踵を返して去っていった。
嵐が去ったあと、俺はドサッとロビーのソファに座り込んだ。
『…………自分がろくでもない男だって事ぐらい、分かってるよ』
あいつに酷い事を言われるのは慣れているはずなのに、色んな事がありすぎて心がすり切れそうだ。
『…………どうせ俺はクズだよ』
俺は目を閉じ、自分が朱里の人生をねじ曲げた事を思いだす。
(俺に目を付けられたばかりに可哀想に。本当なら自分で進路を決めていたはずだったのに。自分の上司がストーカーだったなんて、ホラーだろ)
彼女を想うと、色んな感情が溢れて泣きたくなってくる。
朱里が好きで堪らない。
あいつを抱きたいし、自分の女にして大切にしたい。
ここまで大切に守ってきた分、責任を持って幸せにしたい。
――でも、お前は朱里の意志を無視してるだろ。
――お前がやってる事は、金を持ったストーカーの囲い込みだ。
それでも……。
『…………朱里がほしい…………っ』
たった一つ、俺の心の中で輝く綺麗な星。それが朱里だ。
この闇に包まれた人生を、ほんのりとした灯りで照らしてくれるのが彼女だ。
もしもあの子を愛して幸せにできたなら、自分はクズじゃないと思える気がする。
そこまで考えた時、中村さんの言葉が脳裏に蘇った。
《自分の孤独を慰めるために、朱里を利用しないでください》
君の言う通りだ。俺は自分の孤独や絶望を癒すため、朱里を愛して〝まともな人〟のふりをしようとしている。
――けど、ちゃんと愛すから。
――心の底から愛して、子供も大切にして、幸せな家庭を築くから。
――神様お願いだ。
――あの子を俺にください。
気がつけば俺は、俯いて嗚咽していた。