部長と私の秘め事
 髪と体を洗った私は、バスタブの中で尊さんに後ろから抱き締められていた。

 こんなふうに一緒にお風呂に入って、心から安心感を得られるのは尊さんだけだ。

「……私、昭人と尊さんを比べて、彼を落としたいわけじゃないんです。フラれたからって、恨んで悪口を言いたい訳じゃない……。と思いたい……」

「うん」

 急に話し始めても、尊さんは「何の話?」と突っ込まず聞いてくれる。

 そういう、何があっても受け入れ、きちんと聞くという態度がやっぱり好きだ。

「尊さんと付き合うようになって、あなたの色んな面を見て、言葉を聞くたびに『昭人はこうじゃなかったな』って思っちゃうんです。勿論、尊さんがすべての面で優れていて、好きっていう意味で」

「それは良かった」

 尊さんは私の耳元でクスッと笑い、こめかみにキスをしてきた。

「私、今まで家族の前で感情を出さなかったんです。実家での私を知らない尊さんには、あまり伝わらないかもですが」

「個人的に親しくなる前の、会社での雰囲気で何となく察するけど」

「ああ……」

 確かに、私は会社では淡々と仕事をしていた。

 恵と同じ職場なのは嬉しいけど、親友と同じ勤め先に行けたからといって浮かれていたらいけないと思い、仕事はとてもまじめに取り組んでいた。

 他は愛想を振りまく相手なんていなかったので、余計に会社では笑顔を見せる機会はなかったと思う。

「尊さんといると自分でも知らない自分を知って、驚く事もあります。……~~~~っ、私、『しゅき』なんて言うキャラじゃなかったのに……」

 両手で顔を覆って恥ずかしがると、尊さんはクスクス笑う。

「可愛いじゃねぇか。……というより、朱里はもともと素直な子なんだと思ってる。名古屋で初めて会った時、感情豊かでひたむきで、とても可愛いと思った。……勿論、中学生相手にマジな意味じゃないけど」

 誤解を招くのを怖れている彼を見て、今度は私が笑う。

「尊さん、そういうところめっちゃ気にしますよね」

「当たり前だろ。責任ある立場だからこそ、身綺麗にしてねぇと」

「そういうトコ、好き~」

 彼に後頭部を押しつけてグリグリすると、尊さんは苦笑いし、少ししてからまじめなトーンで言う。

「朱里の場合、さっき言ってた田村クンの事もそうだけど、感覚が色々麻痺してたんだろうな」

「……だと思います」

 私は頷いて、尊さんの両腕を抱き締める。

「私、虐待されてないです。学校でだっていじめられていた訳じゃなくて、自分から距離をとっていただけ……と思いたいです。第三者から見たら、いじめられていたのか分かりませんけど……」

「朱里がそう思うなら、それでいいんだ。〝誰か〟の声なんて気にする必要はない」

 彼の肯定を聞いて私は小さく頷き、震える声で言う。

「……なのに最近物凄く、自分は〝普通〟を知らなかったって思い知るんです。人に甘えるなんて子供みたいで恥ずかしいのに、尊さんは全然馬鹿にしないから、どんどんエスカレートしてアホの子みたいになってます。……『甘えるなんて弱い人のする事』と思っていたから、他人に弱みを見せたり、理性のない姿を見せたら駄目だって思っていました」

 本音を打ち明けた私を、尊さんは優しく抱き締めてくる。

「甘えられないって、結構誰でもあると思う。俺もそうだし」

 言われて、尊さんが誰かに甘えている姿なんて見ていないし、甘えられる環境になかった事も思いだした。

「ごめんなさい。私ばっかりつらいみたいな……」

「いや、そうじゃない。言いたい事は分かる。俺も〝同じ〟だからだ」

 チャプ……と水音を立て、尊さんは私の手をとると、優しく撫でてくる。

「俺も朱里も、付き合って初めてまともな感覚を得るようになっていった。……少なくとも俺はそうだ。何もかも手探りで、うまく愛せるか分からないし、結婚も家庭をつくる事も、正直不安がある」

 偽らない言葉を聞き、私はコクンと頷いた。

「私も同じ事を考えています。勿論、尊さんを愛する気持ちに偽りはありませんし、自分にはこの人しかいないと思っています。……でも、色んな事を初めて体験する未熟な私が、このまま結婚してもいいのかな? って不安になってしまうんです」

 私の言葉を聞いて、尊さんは切なげに微笑んだ。

「俺も同じだ。偉そうな事を言ってるけど、俺はまだまだ未熟で、子供を導いていける親にはなれない気がする。まともな愛情を知らないし、まともに生きてきた自信もない。母の望みの通り、一生懸命まっとうに生きてきたつもりではあるが、しょせん〝ふり〟だ」

 苦笑するように溜め息をついてから、彼は私を抱き締めてきた。

「でも、二人で頑張っていこう。半人前同士が結婚してやっと一人前かもしれないけど、最初から〝完璧〟な親なんていない」

 彼の言葉を聞いて、胸の奥にあった重さがフッと軽くなった。

「そうですね。人生何事も修行」

 両手でギュッと拳を握ると、尊さんが優しい声で言った。

「結婚生活で躓いた時こそ、お義母さんと話して、人生の先輩の意見を聞くチャンスなんじゃないか?」

「……そうですね」

 実父が生きていた頃は、私は甘えん坊な子供だった。

 父は勿論、母の事も大好きで、何かあれば『お母さん、お母さん』と言っていた。

 でも父の死を経て大きな喪失感を得て、どうやって〝普通〟に生きていけばいいのか分からなくなった。

 母に甘えて寂しさを紛らわせたくても、母は一生懸命働いてそれどころではないように見え、遠慮してしまった。

 母が再婚したあとは余計に気を遣い、そうしているうちに『どうやって人に甘えるんだっけ?』と分からなくなり、今に至る。

 でも尊さんの愛情を受けてすべての感覚が〝普通〟に戻りつつある今、もう一度母と娘として向き合えるかもしれない。

(全部、尊さんのお陰だな)

 微笑んで彼の腕をまた抱き締めた時、尊さんが遠慮がちに尋ねてきた。

「……その。……今まであまり触れないようにしていたけど、亡くなったお父さんの事、聞いてもいいか?」

「……え? …………はい」

 父の事を尋ねられ、私は少しぼんやりして返事をする。

 すっかり話した気持ちでいたから、今になって何を……と思ったけれど、すぐに考えを打ち消した。

(そうだ、私、お父さんの事を何も話してない……?)

 気づいて「どうして話さなかったんだろう」と思ったけれど、すぐに明確な答えは浮かんでこなかった。

「トラウマに触れるようだったら申し訳ないけど、どうして亡くなったんだ? 話したくないならいいんだけど」

 質問され、私は答えようとして小さく口を開き、少し息を吸って――――、出すべき言葉を失ってしまった。

 …………どうして死んじゃったんだっけ。

 父の笑顔や、楽しかった思い出なら沢山出てくる。

 なのに、あれだけ大好きだった父が、どうしていなくなってしまったのか、そこだけ記憶がごっそりなくなっていた。

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