部長と私の秘め事
 俺は頭痛を覚えながら、胡乱な目をそちらに向ける。

 当時の俺は、夏休みなのをいい事に、朝から晩まで目的もなく歩き回っていた。

 場所を確認せずひたすら歩くので、自分がどこにいるのか自覚していなかった。

(誰だ……?)

 目を眇めて見た先には、日傘を差した和服姿の中年女性がいる。

 品の良さそうなその顔立ちを見て、『誰かに似てる』と思った時、彼女が弾けるように声を上げた。

『やだ! 酷い顔色じゃない!』

 自覚していなかったが、炎天下のなか歩き続けた俺は顔面蒼白になっていたようだ。

『うち、近くだから来てちょうだい! 日傘に入って! 歩ける!?』

 女性は俺の腕を組むと、支えるように歩き始めた。





 朦朧とするなか豪邸に入ると、玄関でスポーツドリンクを飲まされた。

 目を閉じてぐったりとしていると、彼女は人を呼び、俺を客間のベッドに寝かせた。

 横になると首筋や腋の下に保冷剤を挟まれ、しばらく目を閉じて気分の悪さが収まるのを待つ。

 回復するのを待っている間、少し眠ってしまったかもしれない。

 大学生になって一人暮らしをして怜香から逃れられても、常にネガティブな事しか考えられず、不眠気味だった。

 その時は心身共に限界を迎え、糸が切れたように眠れたのだと思う。

 たっぷり寝て目を覚ますと、時計の秒針の音が耳に入った。

 重たく感じる手をもたげ、額に乗せられているタオルに触る。

 すると『気がついたのね』と女性の優しい声がした。

 声がしたほうを見ると、声を掛けてきた女性が傍らに座っている。

 彼女は和服姿だったのに、俺が眠っている間に着替えたようだ。

『……あなたは……』

 彼女の顔を見るとやはり既視感を覚えるが、誰に似ているのかピンとこない。

 ほっそりとした女性は柔和な顔立ちをしていて、ふわりとパーマの掛かった髪が胸元まで伸びている。

 五十代半ばぐらいだろうが、肌には張りと艶があり、四十代と言っても通じる美しさがある。

 ――あ。母さんに似てるんだ。

 そう思った時、ハッとした。

『ちえり叔母さん?』

『あら、よく分かったわね』

 叔母がニコッと笑った瞬間、目の前に母がいるような気持ちになった。

 彼女――、東雲(しののめ)ちえりは、母の妹だ。

 母は三十三歳で亡くなったが、今も生きていればこんな感じなんだろうか。

 そう思った瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れ、涙を零してしまった。

『…………っ』

 ボロッと涙が零れ、俺はとっさに叔母に背を向ける。

『つらかったわね。……今、冷たい飲み物を持ってくるから、少し待っていて。洗面所は廊下を出た突き当たりにあるから、自由に使っていいわよ』

 叔母はそう言って立ちあがり、静かに部屋を出て廊下を歩いていった。

 彼女が言った『つらかったわね』が、熱中症になった事か、母の事なのかは分からない。

 俺は母の葬儀をほとんど覚えていない。

 葬儀には出たが茫然自失としていて、目の前で行われた事を認識していなかったからだ。

 母方の誰が弔問してくれたのか、ちゃんと骨を拾えたのか、それすらも覚えていない。

(叔母さんとは、いつぶりになるんだ?)

 俺は考えながらも彼女の厚意に甘え、洗面所で顔を洗った。

 鏡を見ると、寝不足と栄養不足で顔色が悪くなった男が映っている。

『……ひでぇな』

 俺は嘲笑気味に呟いたあと、ゆっくりとその場にしゃがみ込む。

 そして今に至る経緯を少しずつ思いだしていった。

 ――あぁ、そうか……。

 自分の身に何があったのか思い出すと怜香への憎しみが蘇り、つらくなる。

 ――これからどうすればいいんだ。

 誰かに尋ねたいが、誰も応えてくれない。

『尊くん? まだ気分が悪いの?』

 その時、階下から戻ってきた叔母が声を掛け、俺は『大丈夫です』と返事をして立ちあがった。

 彼女は手に盆を持っていて、その上に麦茶にレモネード、剥いた桃が載っていた。

『これ、どうぞ。麦茶には少しお塩が入っているわよ』

 客間に戻ると叔母はテーブルの上に盆を置き、俺に座るよう勧めてくる。

『……すみません、ありがとうございます』

 俺はノロノロと手を動かし、麦茶を飲んだ。

 濃い麦の味がし、久しぶりに味覚が働いたように思えた。

 桃にかぶりつくと、口内一杯にジュワリとみずみずしい甘さが広がる。

 ――美味い。

 そう感じたあとは、夢中になって桃を食べた。

 叔母はそんな俺を温かな眼差しで見て、ポツポツと話し始める。

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