部長と私の秘め事
『姉さんは母から絶縁を言い渡された。母……あなたのお祖母さんも後悔していると思うけど、もう意地になっているのよね。私は葬儀の時に亘さんとご挨拶をして、連絡先を交換した。定期的に会う関係ではないけれど、亘さんは時々メールであなたの写真を送ってくれたわ』

 父に写真を撮られた覚えはないので、きっと隠し撮りされていたのだろう。

 腹が立つ……というより、呆れて何も言えない。

『勿論、私は亘さんに一言では済まない感情を抱いている。あの人と出会わなかったら、姉さんは今も生きていたかもしれない。……とかね。……でも姉さんの死後、私たち大人が考えるべきは尊くんの未来だわ。心に傷を負った子供を放置してはいけない』

 叔母からすれば、父に穏やかではない感情を抱くのは当たり前だ。

 それでも遺された子供を優先し、ネガティブな感情を脇に置いて、父と連絡をとっているこの人は芯の強い女性だと思った。

『……今の速水家では、姉さんの話はタブーになっているわ。でも時間が経ったし、あなたを母やみんなに会わせてあげたい』

『いえ、お気持ちだけで……』

 微笑んで会釈すると、ちえり叔母さんは物言いたげな表情をする。

 彼女は少し沈黙したあと、話題を変えた。

『篠宮家ではどう過ごしているの?』

 叔母に顔を覗き込まれ、俺は思わず目を逸らしてしまう。

 怜香が俺を憎む気持ちは理解できるが、数々の仕打ちを思うと、毒親なんて可愛い言葉では済まされない。

 けれどそれを叔母に言うのは憚られた。

 ずっと気にかけ続けてくれたこの人は、完全な善意で俺を心配してくれている。

 俺が怜香に『死ねばいいのに』と日常的に言われているとか、今後の人生を支配し、一生を掛けて復讐されようとしている……など言えない。

 もし叔母がそれを知れば、父や怜香に抗議する可能性がある。

 それでどうなる?

 怜香の俺への当たりはますます強くなり、父と秘密裏に連絡をとっていたと知られれば、速水家の中で叔母の立場が悪くなるかもしれない。

 ――迷惑は掛けたくない。

 そう思った俺は、努めて平気なふりをして微笑んだ。

『大丈夫です。うまくやれています』

『……そう?』

 叔母は気遣わしげな視線で、確認するように見つめてくる。

 俺は改めて彼女を見て、今度は心の底から笑った。

『本当にありがとうございました。偶然の出会いでしたが、お会いできて良かったです。まさか覚えていてくれたなんて、思ってもみなかったので』

『……本当にずっと気に掛けていたのよ』

 彼女の言葉を聞き、不覚にも泣いてしまいそうになる。

 篠宮家に引き取られてからずっと、俺は家族の愛情や温かさを知らず、誰かに心配される事もなかった。

 一緒にいて安らげる親友はいて、彼に一通りの事は打ち明けているものの、『自分の問題だから口出しはしないでほしい』と頼んでいた。

 母のように無償の愛を注いでくれる存在はもういないと思っていたのに、意識していないところで俺を想ってくれている人に出会った。

 しかも、彼女は母にそっくりな女性だ。

 ――それだけでいい。

 ――これ以上のものを求めたらいけない。

 俺は自分に言い聞かせ、久しぶりに安らいだ気持ちで微笑んだ。

『もし良かったら、たまに会いに来てもいいですか?』

『勿論よ! 今度は夫と娘がいる時に来てちょうだい。みんなで食事をしましょう』

 俺は即答してくれた叔母に、心底感謝を覚えた。

〝実家〟は身の置き場がないのに、親戚の家でこんなにも安らげている。

(皮肉なもんだな……)

 俺は心の中で自嘲しつつも、叔母と話しているうちに、荒れ狂っていた気持ちがかなり安らいでいるのに気づいた。

 叔母がいてくれると思っただけで『世の中捨てたもんじゃない』と思えている。

 ――世の中には、まだ俺の事を必要としてくれている人がいる。

 それだけの事が、こんなにも心をしっかり支えてくれる。

 ――頑張ってみよう。

 ――飼い殺しの環境でも、なんとか生きていけるはずだ。

 視線を落とすと、母の声が脳裏に蘇った。

《豊かさはお金だけじゃない。一日に一つは〝良かった〟と思える事を探して、自分は幸せだと思っていくのよ。そうしたら幸せ貯金ができて、尊は〝幸せな人〟になれる。心が幸せな事が、豊かな事なの》

(分かったよ、母さん)

 俺は心の中の母に返事をし、そっと息を吐く。

 俺はしばし目を閉じて気を取り直したあと、篠宮ホールディングスで生きていく覚悟を決めた。

『ありがとうございます、ちえり叔母さん』

 吹っ切れたからか、叔母は俺の表情を見て少し安心したようだった。

『今日、せっかくだから泊まっていく?』

『お気遣いありがとうございます。ですが今日は遠慮しておきます。そのうち落ち着いた頃、また改めて伺います』

『そう。じゃあその時を楽しみにしているわね』

 俺はゆっくり立ち上がり、自分の体調を確認する。

 ――大丈夫だ。

 そして心の中にいる傷付いた自分に頷き、ゴーサインを出した。

『ではそろそろ、おいとまします』

『これ、持っていってくれる?』

 叔母が渡してきたのはピアノ教室の名刺だ。

『ありがとうございます。そのうちご連絡しますね』

 俺はそれをポケットにしまい、部屋から出ると、玄関で靴を履いて叔母に笑いかけた。

『本当にありがとうございました。必ず、またご連絡します』

『待っているわ。また倒れないようにね』

『はい』

 玄関のドアを開けると、ムワッとした夏の暑さが襲ってきた。

 数時間前までは、すべてに絶望して歩き、この暑さで身が焼けてしまえばいいと思っていたが、今は少し違う。

(……悪くない)

 小さく笑った俺は、叔母に頭を下げた。

『それでは、また』

『気をつけてね』

 彼女の言葉を聞いて、俺は思わず笑った。

 出がけに『気をつけてね』なんて言われたのは、何年ぶりだろう。

(……ん、悪くない。なんとかなる)

 俺は叔母に会釈をし、一人暮らしをしているマンションに向かってゆっくり歩いていった。



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