部長と私の秘め事
『忍、スマホ持ってる?』

 そう言って、朱里はコートのポケットからスマホを出し、メッセージアプリを開く。

 死のうと思っていたのにスマホを持って来ているのが今の子らしくて、つい笑いそうになる。

『……いや、急いで出てきたから、宿に忘れたな』

 本当はコートのポケットに入っているが、嘘をついた。

 きっと今の朱里は母子家庭になって、母に甘えたいのだろうが、自立心があるから素直になれていないと察した。

 母子家庭になれば、自ずと母親が働く事になる。

 俺も仕事を掛け持ちしていた母の背中を見ていたから、『心配を掛けたらいけない』と思っていた。

 親が死んだ事により、同い年の友達とは少し価値観が異なっているだろう。

 そんな時、話しやすい大人がいたら、そいつを頼りたくなると思う。

 両親が生きている友達には言いづらい事も、大人なら自分の苦しみを分かってくれる……、と。

 頼られるのはやぶさかではないし、俺は自分の意志で朱里を助けたし、励ました。

 でも、この先ずっと朱里に頼られる事を思うと、『依存させてはいけないと』感じた。

 この子がこの先生きていくのは、父親がいない世界だ。

 朱里自身が父親のいない環境で、母親と協力して過ごし、学んで、将来の事を考えなければならない。

 勿論、誰かを頼るのは悪い事じゃないが、現実から目を逸らして、スマホの中に安らぎを求めるのは健康的ではない。

 それに、こんな得体の知れない大学生を頼るより、ちゃんと同い年の友達を作ってその子たちと交流すべきだ。

 もっと言えば、これ以上彼女と関わるのは止めようと思ったのは、自分のためでもある。

 人に頼られるのは気持ちいいし、美少女と言っていい朱里が俺の言葉を信じて生きていく事を思うと、何とも言えない甘美な感情に見舞われる。

 俺自身、家族を喪って酷いいびりを受け、付き合おうと思った女には裏切られ、もう誰も信じられないと感じている。

 それでも心の底では、まだ『誰かに必要とされたい』『愛されたい』と願っている。

 そんななか朱里に頼られたら、俺のほうが彼女に依存してしまう。

 最悪、共依存になり、お互いスマホばかり気にして、側にいる人をないがしろにするかもしれない。

 せめて朱里が大学生なら、関わりを持ちたいと思ったかもしれない。

 でも大学生が中学生と連絡を持ち続けるのは健全じゃない。あと二年も経てば俺は社会人になるし、これ以上怜香に弱みを握られたくない。

 そう考えていると、朱里はなおも食い下がって尋ねてきた。

『旅館にスマホあるんでしょう? 待ってるから連絡先を……』

 俺は彼女の頭をポンと撫で、言い含めた。

『俺はまだ大学生で、大人じゃない。朱里の人生に責任を持てる自信がない』

『……忍に責任なんて求めない』

 朱里は肩を落とし、悄然として言う。

 スッパリ切り捨てるのも可哀想で、つい期待を持たせる事を言ってしまっていた。

『この縁が本物なら、いつか大人になった時にどこかで会える。その時は運命だと思って、ちゃんと向き合うよ』

 本当は俺のほうがこの子を気にして、縁を絶ちきれずにいた。

〝あかり〟という名前が引っ掛かるし、中学生ぐらいの年齢なのも、気になって仕方がない。

 心の底に〝誰か〟の姿が浮かび上がりそうになり、彼女をその人に重ねようとしていた。

 もう一度会いたくて堪らない〝誰か〟と朱里を同一視し、自分が彼女の命を救えた事に運命を感じている。

 ――今後、この子はちゃんと笑顔で生きていけるだろうか。

 ――友達は少ないと言っていたけど、孤立せず楽しい学生生活を送っていけるだろうか。

 そんな〝兄〟にも似た感情が生まれ、どうしても朱里との縁をここで終わりにする事ができなかった。

 共依存になったら困る、自分が関わったらこの子のためにならない。そんな立派な理由を並べながらも、俺のほうこそ朱里に未練タラタラだ。

 だから思わず、女子が好きそうな『運命』という言葉を口にし、彼女を繋ぎ止めようとした。

 朱里は連絡先を教えてくれない俺を見て悲しそうな顔をし、唇を尖らせて言う。

『……絶対だよ。私の事、忘れないでね』

『このクソ寒い時期に寒中水泳しようとした奴を、そうそう忘れられねぇよ』

『もう! 人が真剣に悩んでるのに!』

 茶化すと、朱里は怒って俺の腕を叩いてきた。でもその顔は笑っている。

『笑ったら可愛いじゃねぇか。……つらい事あって笑顔でいるのは難しいけど、なるべく笑ってろよ。〝笑う門には福来たる〟って言うだろ。笑ってればきっといい事ある』

『……うん』

 やがて俺たちは、彼女が泊まっているホテルの前で別れる事にした。

『じゃあね、忍』

『元気でな。あんまりお母さんを困らせるんじゃねぇぞ』

『うん』

 朱里は俺に手を振り、出入り口に向かって歩いていく。

 ――と、立ち止まって尋ねてきた。

『忍って彼女いるの?』

『いない』

『あと十年経ってもまだ恋人がいなかったら、私が結婚してあげる! その時は私、二十四歳で立派な大人だよ』

『そん時は俺は三十歳だよ。さすがに誰かいるだろ』

『いなかったら? 三十歳で独身だったら?』

 朱里は挑発するような目で俺を見てくる。

 まったく、女って生き物は中学生でも〝女〟だ。

『……その時は宜しく』

 仕方ねぇな、と思って譲歩すると、朱里は嬉しそうに笑った。

 今泣いた烏がもう笑う。

 コロコロと表情が変わる朱里を見ると、本当の彼女は感情豊かで前向きな性格なんだろうなと思った。

『幸せになれよ』

 俺はそう言って朱里に手を振り、自分の旅館に向かって歩き始めた。



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