想いと共に花と散る
 男はソファの背もたれに深く身を預け直し、ゆっくりと天井を仰いだ。
 脚を組み替えるでもなく、腕を組むでもない。ただ無造作に体重を預けているだけのその姿は、まるでこの場で交わされる言葉も、空気の変化すらも、全て織り込み済みだと言わんばかりだった。

「……あんた」

 低く抑えた声で土方が言う。
 鋭い視線は一度も男から外れず、室内に落ちた沈黙だけがじわじわと緊張を増していった。

「幕臣の――……榎本武揚だな」

 その名が落ちた瞬間、張り詰めていた空気が一段階引き締まった。
 市村は思わず息を呑み、つねは目を見開いたまま身を強張らせる。
 雪だけが、その名が持つ重さを即座に量り切れずに三人の表情を順に見比べていた。

「ほう」

 男はようやく天井から視線を外し、ゆっくりと上体を起こした。
 真正面から土方を捉えるその瞳には、驚きはない。
 あるのは、予想が当たったことへの僅かな興と楽しげな余裕だけだった。

「さすがだな。名乗る前に当てられるとは思わなかった」

 口元に浮かんだ笑みは浅く、誇示するでもなく、警戒するでもない。
 自分の名が場を支配することを疑いもしない者の表情だった。

「……隠す気もなかったくせに」
「はは。まあな。どうせ、いずれは知れる」

 軽く肩を竦めた榎本は、ことさら重さを持たせることもなく言葉を続ける。

「改めて名乗ろうか。旧幕府海軍副総裁、榎本武揚だ」

 その名乗りに威圧はない。
 だが、言葉が空気に溶けた瞬間、室内の温度が確かに下がったように感じられた。

「で、あんたは新撰組副長、土方歳三。そっちが小姓だな」

 視線が流れるように雪へ向く。

「嬢ちゃん、こんな所にまでよく来たな」
「っ………!」

 一瞬で見抜かれたことに、雪は言葉を失った。
 白いワイシャツに焦げ茶のベスト、黒のズボン。市村と並べば違和感は薄いはずの装いだが、榎本の目は迷いなく本質を捉えている。

「まあ、いい」

 それ以上深追いする気はないのか、榎本はすぐに話題を切り替えた。

「それより――……生きる場所、だったな」

 その言葉が出た瞬間、隣に座っていた大鳥の表情が露骨に険しくなる。
 先程ようやく話を打ち切ったばかりだ。また蒸し返すつもりかと、その視線が榎本を射抜いた。

「それはな……」

 榎本は一拍置き、言葉を選ぶようにしてから、再び雪を見た。

「ここは“逃げ場”じゃない。負けた者が身を寄せ合って、傷を舐め合う場所でもない」

 淡々とした口調だが、否定の余地は与えない。
 有無を言わせない勢いを言葉に宿していた。

「ここは、“選び続ける場所”だ」
「……選ぶ?」
 
 雪が、戸惑いを滲ませながら問い返す。
 その声はかすかに震えていたが、榎本はそれすら織り込み済みだというように、間を置かず淡々と返した。

「戦うのか、降りるのか。進むのか、引き返すのか――……誰の命を、賭けるか、だ」
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