想いと共に花と散る

呼んでもいいですか

 夜更けの箱館は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
 建物の奥まった一室、机の上に広げられた一枚の地図だけが、淡い灯りに照らされている。
 描かれているのは、五つの稜を持つ異様な城郭『五稜郭』。

「――……箱館奉行所は、事実上機能していねぇ」

 最初に口を開いたのは、榎本だった。
 感情の起伏を感じさせない声が、静かな室内に落ちる。
 函館の真ん中に位置する洋館の中、奥まった位置にある談話室には陸海軍の役人が集められた。

「旧幕府艦隊の入港によって、向こうは完全に浮き足立ってやがる。上からの指示も、下からの統制も、今は繋がっていない」
「つまり、城はあっても守る“意思”がないと」

 大鳥が言葉を継ぐ。肩から垂らした長い髪が揺れ動き、覗き込んだ地図の上に落ちる。
 地図の上に指を置いた榎本は、見せつけるように五稜郭の外周をなぞった。

「兵はいるが、士気は低い。この状態で正面衝突をすれば、不要な血が流れるだけだ」

 そこで、低く鼻を鳴らす音がした。
 地図の上に落ちていた視線が上げられ、音が聞こえた方向に向けられる。

「……血を流さずに済む戦なんざ、そうそうねぇ」

 一同の視線が向けられた先にいるのは、この場では新参者に当たる土方その人。
 腕を組み、壁に背を預けたまま地図には近寄ろうとはしない。
 ソファに座って机を囲む彼らに向かって、土方は淡々と言ってのける。

「だが、城を守る気がねぇってんなら話は別だ。向こうが“戦場”だと思っていないなら、尚更な」

 静かな部屋の中に落ちたその言葉は、ある意味現実を見ているが、ある意味では過去を捨てきれない男の発言でもあった。
 榎本は一度、視線を土方に向ける。それから、自身の向かいに座っている無表情の男へと視線を移した。

「松平はどう思う」

 問われた男は、僅かに背筋を正し再び地図に目を落とした。
 男の名を松平太郎。鳥羽伏見の戦いの後、陸軍奉行並に任じられた新政府軍に反抗する男だ。
 榎本の右腕的存在であり、二人の間には絶対的な信頼がある。
 徳川の名を背負う者として、松平は軽々しく言葉を選ぶことはできない。

「……武力で奪えば、確かに早い。だが、ここは“始まりの地”になる」

 その一言で、場の空気が変わった。
 言いようのない緊張感が部屋に満ち、皆の顔は徐々に引き攣っていく。

「蝦夷地に新たな政を立てるのなら、五稜郭は“勝ち取った城”ではなく、“託された城”であるべきだ」
「託される、ねぇ」

 松平の言葉に、土方が僅かに口角を歪める。

「綺麗な言葉だ。だが、綺麗事だけで腹は膨れねぇし、人も動かねぇ」
「承知している」

 二人の言葉はどちらも現実を語る上で間違っていない。
 だからこそ、磁石のように反発し合う。彼とは過ごした時間があまりにも短すぎるのだ。
 土方の言葉に即答した松平は、地図から目を逸らさずに続けた。

「血を流さずに取れるなら、それが最善だと言っているのだ」
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