孤独な令嬢と、ある教師の話。
母が閉じ籠ったことで姉とも以前のように交流出来る事になった。体調がすっかり回復した姉は将来伯爵家を継ぐための勉強を始めていると言う。オリヴィアは姉を補佐をするか、家の利益になる結婚をする事になる。しかし、両親の姿を見ていると結婚に夢を抱かなくなっていた。それは姉もだった。結婚はせず、将来的には親戚から養子を取るか、と冗談を交えながら話していた。
それから数年後、母が病気になったと知らされた。日に当たることもなくずっと部屋に篭っていれば、遅かれ早かれそうなっていたのだろう。その病の完治は難しい、と伯爵家の専属医から告げられた時父も姉も、オリヴィアも悲しげな顔はしていなかった。母のことは好きだった、はずなのに。もう元気な母の姿を見られないことや話せないことを悲しむより、母がもう姉を傷つけることが出来ない事実の方にホッとした。そんな自分が、何だか嫌だった。
オリヴィアが10歳になる頃、母の命が尽きようとしていると家族全員呼び出された。お見舞いに行こうとしても母の侍女が精神的に不安定になる、と頑なに拒絶したせいで、オリヴィアはあの日以来母の姿を見ていない。しかし状況が状況なので侍女を押しのけて父が無理矢理部屋に押し入った。数年ぶりに見る母の姿に衝撃を受ける。顔色は悪く頬は痩け目は落ち窪み、髪は自分で切ったのか長さがジグザグだ。心が不安定だと聞いていたけれど、実際目にすると何とも言えない気持ちになった。
オリヴィア達の他に母方の祖父母と伯父もやって来た。時折邸を訪れていたが、母が完全に拒絶していたので碌な対話も出来ていなかっただろう。かといってオリヴィア達とも会うことはなかった。母のこの様子では、もう対話も難しいと思うが。
母は侍女に手伝われながらベッドから身体を起こすと焦点のあっていない目をこちらに向けた。
「…わたくし、やっと死ねるのね。せいせいするわ、もうあなた達の顔を見なくても済むもの」
「セシル!」
突然の暴言に父が声を荒げるが母は臆することはなく、淡々と続ける。
「名前を呼ばないでと言ったはずよ伯爵様…公爵様達も娘を売り飛ばした金でさぞ優雅な暮らしをしてたのでしょうね。何も与えられなかったわたくしに、責任だけ求めた人でなしの悪魔共」
母の憎悪の篭った目が祖父母と伯父に向けられた。あまりの迫力と異様さに祖父母の顔から血の気が引いていく。しかし、険しい顔付きで伯父が口を開いた。
「お前は…まだあのことを根に持っているのか…貴族の娘が家の為に嫁ぐのは当然のことだ。それを人でなし呼ばわりされる筋合いはない。子供のように駄々を捏ねて見苦しい真似をするな」
「ジョエルとの結婚を認めてくれたのに」
「身体が弱く、引きこもって碌に社交もしてなかったお前の嫁ぎ先がなかったから仕方なく認めたんだ。ただの平民より裕福な伯爵家に嫁いだ方が幸せに決まっているだろう」
伯父が聞き分けのない子供を宥めるように言うが、母は一転して貴婦人のような笑みを浮かべた。
「ふふふ、幸せって?一回り年上の男に下劣な劣情を向けられ、悍ましい行為を強いられて子供を産ませられることかしら?あはは、いくら裕福でも全く幸せではなかったわよ。何度死んでやろうと思ったことか」
母は今まで溜め込んでいた鬱憤を晴らすかの如く生々しい話を聞かせる。子供に聞かせる話ではないと控えていたメイドがオリヴィアと姉の耳を塞いだが遅かった。
「それに、社交をしてなかったのはお父様達から放置してたからよ。お姉様達が公爵家に相応しい殿方と婚約したから末のわたくしに関心が無かったのよねお父様?頻繁に風邪を引く身体の弱い娘は恥晒しだと、わたくしの世話を使用人に丸投げしていたでしょお母様?デビュタントの準備だって家令がしてくれたの、お兄様はご存知ないの?どうでも良い娘だから、使用人との結婚を認めたくせに。利用価値が出来たらすぐ約束を反故にするの、本当貴族らしいわ」
母は皮肉を交えて嘲笑する。祖母は今にも倒れそうなほど顔色が悪い。祖父は母の視線から逃れるように顔を逸らしていた。父ははっきりと母から嫌悪の感情をぶつけられ呆然と立ち尽くしている。
「領地の不作は大雨の対策をしてなかったお父様が無能なせいだし、事業の失敗は甘い話に騙されたお兄様が馬鹿だっただけなのに、何でわたくしがあなた達の尻拭いをしなければいけなかったのよ…ジョエルのことも脅して引っ越しさせたのでしょう?」
無能、馬鹿呼ばわりされた祖父と伯父は顔を真っ赤にしているが怒鳴るのを堪えている、いや口を挟めない。母の迫力が凄すぎるからだ。
「資金援助だってお姉様達の嫁ぎ先に頭を下げれば良かったのに、プライドの高いお姉様達に断られたのかしら?お姉様達を説得するより、わたくしを売った方が楽でしょうね。まあ、今となってはどうでも良いけど」
ピク、と伯父の肩が震えた。母の指摘が当たっていたのかもしれない。会ったこともない伯母達だが、どんな性格なのか何となく理解出来た。
「…碌でもない人生だったけど、唯一良かったことがあるわ。オリヴィアが産まれたことよ。愛しいあの人との愛の結晶だもの」
母の発言に部屋の中の空気が凍り付いた。全員爆弾発言に絶句し、その意味を理解出来ないでいる。いち早く立ち直ったのは、父だ。
「セ、セシル…ど、どう言う意味だ…まさか、例の庭師と」
「ええ、上の子を産んで憔悴し切ってるわたくしを見兼ねてクロエがジョエルの居場所を探ってくれたの。彼が見つかった後はわたくしが彼と会えるように協力してくれたわ。わたくしに寄り添ってくれたのはクロエとジョエルだけだったから」
うっとりと語る母はまるで恋する少女である。母の専属侍女、クロエ。彼女はいついかなる時でも母の側に付き従っている。姉への嫌がらせには加担してなかったが母を諌めることもしなかった。父は彼女を解雇しようとしたらしいが、母が強固に反対したために諦めたのだ。いつも無表情で、何を考えているのか分からずオリヴィアは彼女が怖かった。
そのクロエは母の父以外の男性との逢引に加担したと暴露されたにも関わらず、慌てる様子が微塵もない。主人である父を裏切ったのに、寧ろ誇らしいと言わんばかりの堂々とした態度に父達が得体の知れないものを見る目を向けた。
「…クロエ…あなた自分が何をしたか分かってるの…」
引き攣ったような声で祖母がクロエに問いかける。クロエの行為は即解雇どころか、罰を与えられてもおかしくない。そうなれば、もうまともな働き口は見つけられないというのに。
「はい大奥様。あのままではセシルお嬢様は自ら命を絶ちかねませんでした。お嬢様の心を守るためにしたこと、全く後悔しておりません」
母をお嬢様と呼ぶクロエは、母がリーデル伯爵夫人だと認めてすらいないのだと、たった今分かった。