一大決心して大学院に進学したら、なぜか指導教官の外科医に溺愛されてます


「……え、Cas9?」

ある日の午後、共同研究室の一角でのことだった。

「NGS(次世代シーケンサー)の解析フロー、ちょっと教えてくれないかな」

そう言って現れたのは、循環器内科の御崎先生だ。
一通りのレクチャーを終え、世間話ついでにお互いの最近の研究進捗について語っている時、彼は私の手元にある実験計画書を見て目を丸くした。

「iPS細胞に、CRISPR-Cas9を使って目的の変異を入れる……って、これまた随分と手間のかかる実験を組むな。オフターゲットの検証だけでも一苦労だろ」

御崎先生の指摘はもっともだ。

ゲノム編集は、魔法の杖ではない。狙った場所以外の遺伝子を切断してしまうリスク(オフターゲット効果)を一つひとつ検証して潰していくだけで、膨大な時間と労力が溶けていく。

「はい。でも、患者さんの検体だけだとN数が稼げないので……遺伝的背景を揃えたアイソジェニック株で比較する必要があって」

私が淡々と、さも当然のことのように説明すると、御崎先生は不思議そうに首を傾げた。

「……へぇ。なんでまた、そんな高度なことを?」

彼は記憶を辿るように天井を仰ぐ。

「高橋さん、M2だったよな?
こないだの学会でポスター発表してたやつ、あれでデータはまとまってたじゃないか。正直、修論のネタとしては十分すぎるくらいだろ。これ以上、新しい系を立ち上げる必要ある?」

彼の指摘はもっともだった。
修士課程はたったの2年。卒業するだけなら、既存のデータで論文を書いて終わらせるのが賢い選択だ。
わざわざゲノム編集という、時間もコストもかかり、失敗のリスクも高い実験に手を出さなくてもいい。
私は視線を少し落とし、手元の書類を握りしめた。

「……そうですね。おっしゃる通りです」

隠しても仕方がない。御崎先生にはお見通しだ。

「今やってることは、殆ど……坂上先生のD論(博士論文)の核になる内容だと思います」

私の修論のためではない。
坂上先生がインパクトファクターの高いジャーナルに投稿し、華々しく学位を取るための「追加データ」だ。
私が今、顕微鏡を覗き続けている時間は、全て彼のために捧げられている。

「…………」

御崎先生の表情から、笑顔が消えた。
彼はコーヒーカップをテーブルに置くと、真剣な眼差しで私に向き直った。

「……そう。君自身がそれに納得してるなら、俺が口を挟むことじゃ……ないけど」

彼は言葉を選びながら、けれど核心部分にメスを入れた。

「医学部の研究室における、修士学生で非MDの立場って……正直、あんまり良くない」

静かな声が、痛いところを突く。

「医師(MD)である大学院生の手足となって動く、高度な『雑用係』……悪く言えば『テクニシャン扱い』になりがちだ」

「……」

「坂上は優秀だし、悪い奴じゃない。でも、あいつは目的のためなら周りを巻き込むことに躊躇がないから」

御崎先生は、心配そうに眉を下げた。
御崎先生とは特別仲がいいわけじゃない、と坂上先生は言っていたけれど、大学の6年間に加えて、循環器内科と心臓血管外科で、仕事上深く話をする機会も多いのだろう。
彼のことをよく知った上での忠告のように聞こえた。

「『学位の為』とか『研究室の方針』とか言いくるめられて、不当な扱いまで呑む必要は無いんだよ」

優しさが、痛かった。
彼の言うことは正しい。私は「搾取」されているのかもしれない。
でも、私はその「雑用係」のポジションに、自らの意思でしがみついている。
それが、あの傲慢な外科医と繋がっていられる唯一の場所だから。
私は曖昧に微笑むことしかできなかった。

「……ご心配ありがとうございます。でも、私がやりたくてやってることですから」

そう答えるのが精一杯だった。
御崎先生は何か言いたげに口を開きかけたが、結局
「……そう」と短く呟いて、それ以上は踏み込んでこなかった。



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